「大丈夫そうで安心したぜ?そりゃそうか、風邪なんざ、逃げるための口実だもんなあ」
 ばれてる。いやばれていない方がおかしいか。いやそんなことより逃げないと。の考えがそこに至る事などセッツァーはとうに見抜いていた。部屋から引きずり出され、振りほどけない力で腕をひかれて行きついた先は廊下の奥の小部屋だ。朝早く飛空挺を操縦するから早く寝る時や昼寝をする時、彼がここに籠る事をは知っている。
 さて、部屋の中に入るとセッツァーは灯りを付け、ご丁寧に扉に鍵まで掛けた。完全な二人きりだ。
 「ったく、手間掛けさせやがって」
 昼間の間抜けな表情は夢だったのかと思うほど、声は落ち着いている。灯りをつけても薄暗い部屋なので表情はよく見えないが、紫の瞳には余裕ありげな光がゆらゆらと揺れているのだろう。
 セッツァーの目に、は今日初めて女性として映った。そこまでは強く望んでいたことだった。けれどそこから先はぼんやりとしか想像していなかった。その、ぼんやりとした未来が現実になろうとしている。
 「さてと」
 そんな戸惑いを知ってか知らずか、セッツァーは肩を掴み、真正面から見据えてきた。「で、昼間のあれは、どういうつもりだ」
 「……怒ってるならごめん。嫌だったならもっとごめん」
 「怒っちゃいねえし謝れとも言ってねえ。どういうつもりか聞いてんだよ、俺は」
 低い声は静かで、それが返って追い詰められるような気分になった。肩を掴んだ手は力強く、とても逃げ出せない。隙をついて逃げたとしても扉の鍵を開ける間に捕まる。
 素直に理由を言えばいいのだ、自分を意識して欲しかったから、あんなことをしたのだと。
 でも、ただそれだけなのだ。それなのにこんな大事になってしまった。彼の唇を奪い、翻弄し、刺激した理由がそんなことだなんて、恐ろしくて言えない。
 嘘をついて逃げようか。いや、この男も騙せるような良く出来た嘘なんて、そんなにすぐには浮かばない。いつも自信ありげで、頼もしくて、何とかしてくれて、そこが素敵で。
 ひたすら謝ってうやむやにするのはどうだろう。今さっき『謝れとは言っていない』と言われたばかりだ。ただ答えを知りたがっている。大人なくせに、いや大人だからだろうか?納得するまでは決して譲らない人だから。
 いっそ泣き落としなら効果ありでは?でも腰抜けが嫌いな彼は、すぐに泣く女も同様に嫌いかもしれない。それは嫌だ。
 ――あ。
 『嫌われるのが嫌なんて、結局好きなんだ、わたしは』
 ぐるぐる回り続けた思考は、避けようとしても避けようとしても、必ずそこにたどり着いた。
 「わたし、実は、その」
 もう無かったことには出来ない。ずっと好きだった。言おうとしたその時だった。
 飛空挺が、大きく揺れた。


 「わっ!?」
 「なんだ!?」
 二人は同時に大声を上げた。機体はぐらぐら揺れ続け、部屋の外が騒がしい。
 「もしかして操縦ミス?今飛空挺操縦してるのって、誰?」
 「……カイエン」
 「え、え、操縦していいって言ったの?なんで?いつも危険だからって断ってるじゃない!」
 は目を向いてセッツァーを問い詰めた。カイエンはとにかく機械に弱い。弱いだけならまだしも、機械に関しては常に最悪の行動を率先して取るのだった。具体的に言えば引いてはいけないレバーを引き、押してはいけないスイッチを押し、緩めてはいけないねじを緩める。わざとかと疑いたくなる行動の数々は、悲しい事に彼なりに真剣に機械に向きあった結果の事らしく、そのためセッツァーは決して彼に操縦舵を握らせなかった。これからも触らせないはずだった。
 「しょうがねえだろ…自分より年上の、生真面目が服着たようなおっさんに『一度でいいから操縦したいんでござる!一度でいいでござるから!』なんて土下座されて、断れるか?」
 「それは…」
 「それに、やばい事にならねえようにエドガーとマッシュに付いて貰うなら、って事で許可したんだ。だから多分、操縦ミスじゃない」
 エドガーがカイエンの傍に付けば余程の事は起こらないし、カイエンが無茶しそうになったらマッシュが力ずくで止める。ならばこの揺れはどうしたことなのか。
 「じゃあ、なんで揺れてるの」
 「わからねえ!」
 言い捨てたセッツァーは扉の鍵を開けて、甲板に駆けて行った。後を追いかけようとしたが「危険だからそこにいろ」と言われ、戸惑いながら部屋に留まった。


 けれど。
 「なにあれ…」
 揺れはおさまるどころか酷くなる一方だったので、気になって甲板に向かい、扉を開けて外の様子を伺ったは、目を疑った。
 暗い夜空の中、大きな閃光が空の上で輝いては消えていた。そのせいで暗い中でも何が起こっているのかすぐに把握できた。髑髏を思わせる禍々しい顔に、悪魔のような羽を持つ巨大な化け物が、飛空挺を攻撃していたのだ。
 化け物が低く唸りだらしなく開けた口の奥で、小さな氷の球が大きくなっていくのを見た。やがて卵が生まれるように出てきたそれは、急に速度を上げ飛空挺めがけて飛んでくる。
 ぶつかる――思わず目を閉じたけれど、やってきたのは衝撃ではなく激しい揺れだけだった。間一髪のところでセッツァーが避けたのだ。酷くなる揺れは、きっとセッツァーがこうやって氷の塊を避けていたからなのだろう。
 魔物の攻撃をセッツァーがかわし、マッシュとカイエンが戦い、エドガーが魔法で二人をフォローしているようだったが、劣勢なのは一目瞭然だった。
 身動きできないでいると、他の仲間達がやってきた。ティナが「怖いくらい、強い魔力…」と険しい顔になり、リルムとモグは震えながらシャドウにくっついている。怯える二人を守るようにガウとウーマロが唸り声を上げ、セリスは気丈にもの開けていた扉の隙間から外の様子を見て「あんな魔物見た事ない…ストラゴス」と、背後の仲間を振り返った。
 「あの魔物、知ってる?」
 「どれどれ」
 いつも通りに見えるストラゴスは同じように甲板の魔物を見て、ぱっと眼を見開いた。
 「あれは…デスゲイズじゃ!」
 「デスゲイズ!?初めて聞く魔物ね」
 の言葉に、ストラゴスは目をらんらんと輝かせて語った。恐怖よりも珍しい魔物を見た喜びの方が勝っているように見えた。
 「かつて大地の奥底に封印されていた、古の魔物の一種じゃ。恐らくは世界が崩壊した衝撃で復活したのじゃろう。空を飛び回る魔物だからいつか出会えるかと思っておったが、ついに会えたゾイ!」
 「…もしかして喜んでる?」
 「当然じゃ、まさか奴に生きてお目にかかれるとは思わなんだでのう!どれ、どんな技を使うのか確かめに行くゾイ!」
 ゾイゾイいながら甲板に飛び出したストラゴスに続き、ロックとシャドウが風のように駆けて行く。その後をティナとセリスが魔法の詠唱をしながら追いかけた。我に返ったも飛び出すと、ティナとセリスが早くもあらゆる属性の魔法攻撃で弱点を探っている所だった。連続攻撃でデスゲイズの動きが鈍り、その隙には先に戦っていた四人の傷を回復した。剣は置いてきてしまったが、回復も得意で本当に良かった、と思いながら。
化け物――デスゲイズは攻撃を受けて忌々しそうに雄叫び、今度は大きく翼をはためかせた。周りの空気が翼の動きに合わせて激しく揺れ、まるで風を叩きつけたような激しい嵐が甲板を襲った。他の者はとっさに柱や縁に捕まったが、無防備だったは風をまともに受けて尻もちをつき、立とうとした時にまた風の直撃を受け、吹き飛ばされるようにして転んだ。
 甲板を右に左に転がり続け、飛空挺から落ちる恐怖に怯えながら伸ばした手を掴んだのはセッツァーだった。
 「大丈夫か!?」
 言いながらセッツァーは、自分と操縦舵の間に固定するようにの身体を挟んだ。ようやく一心地ついて、はセッツァーを見上げた。
 「大丈夫、転んだだけ…セッツァーは」
 「お前の回復が無かったらやばかった。でもまあ、こっからが本番だ」
 低い声は妙に楽しげで、弾んでいるようだ。まさかと思って良く見ると、やはり薄い唇の端が僅かに上がっている。紫の瞳は獲物を見つけた獣のようにらんらんと輝いていた。
 未知の魔物を前にしてるくせに、さっきまでぼろぼろだったくせに、彼はこの状況を心の底から楽しんでいる。
「古の魔物だか何だか知らないが、こっちの面子の攻撃と俺の舵取りの腕がどれだけのもんか、見せてやろうぜ」
 甲板は夜で、デスゲイズの放った氷の攻撃もあってひんやりしている。それに恐ろしさもあって、は震えが止まらなかった。けれどセッツァーの不敵な表情を見ているうちに、そんな怯えなど溶けて消えてしまったようだ。いつもそうだ、セッツァーといるとは、何故か何でも出来そうなくらい、勇気がわいてくる。
 「コラ!そこの二人、いちゃついてる暇はないゾイ!」
 ストラゴスが遠くから怒鳴った。いつの間にか二人は見つめ合っていて、それどころかお互いの手が相手の背中にしっかり回っていた。これは怒鳴られても仕方がない。慌てて二人は離れ、セッツァーは舵とりに集中し、はストラゴスの元に向かった。
 「シャドウ、後方からマッシュ達を援護しろ!ロック、エドガー、お主らも魔法で攻撃じゃ!セッツァーは舵を取りながら皆の補助、はワシと回復担当じゃ、長丁場になるゾイ、覚悟してかかれ!」
 皆が気を引き締めてデスゲイズと対峙した。魔法攻撃の末、デスゲイズが炎に弱いと判明した後は、早速ファイガで魔法組が攻撃、接近戦組が炎の力を秘めた武器での攻撃をくり返す。それらの攻撃がかわされても、かわした先には火遁が待ち受けていて、確実にダメージを与えることができた。最初こそ返り討ちにあって深手を負ったが、セッツァーが舵を取りながら皆の素早さや防御力を補助魔法で上げ続けるうちにダメージは通りにくくなり、もし誰かが傷ついても、痛みを感じる前にすかさず回復組が治癒した。
 人数が増えたのと、素早く役割分担が出来たのが幸いして劣勢はやがて優勢になった。だが。
 「大分、動きが鈍ってきたわ…」
 「もう少し…もう少しでござる!」
 手ごたえは感じていたが、デスゲイズの圧倒的な生命力はまだ尽きることはなかった。回復魔法は怪我は治せても疲労は治せない。 前線で戦い続けた直接攻撃組はふらつきながら、魔法攻撃組は声が枯れ、寄り添うようにしてなんとか立っている。皆の回復を続けていたもまた、魔法を多く使った時特有の、眠気を覚える疲労で体力の限界を感じていた。ストラゴスもふらふらしているので、と同じく激しい疲労を感じているのだろう。怯えていたリルムやモグ達も加わって何とか攻め続けてはいるが、終わりの来ない戦いに、体力だけでなく精神も限界に近付いていた。
 もう少しだけど、そのもう少しが長い。何か決定的なダメージがあれば。
 動けない皆も、戦い続けている皆も、同じ事を考えていた。
 「ウホオオオオオ!」
 その時、甲板に目が覚めるような怒声が響き渡った。見ればウーマロが甲板に飛び出し、いきり立ってデスゲイズに何かを投げつけた所だった。
 その「何か」は見事命中し、耳をつんざくようなデスゲイズの悲鳴が響き渡る。大きなダメージを与えたのは確実だった。
 「何か」が何だろうと思う間もなく、ウーマロの背後から出てきたゴゴが、一挙手一投足ウーマロと同じ行動を繰り返す。二度の決定的なダメージは流石のデスゲイズでも耐えられなかったと見て、ついに甲板に落ちるように倒れた。
 「ウーマロ…ゴゴ…助かった…」
 命拾いをした安堵のなか、あんなダメージを与えるなんて一体何を投げたのだろうと、は投げた物が落ちた方に目をやった。
 頭をさすっているガウが、ゴゴとウーマロを恨みがましい目で見ている。
 あ、そういうことか。察しの悪いにも察する事が出来た。


 「ウーマロ!ゴゴ!ひどい!おれ、痛かったぞ!」
 ガウの大声が、皆の緊張を解いた。ある者はその場に座り込み、ある者は仲間と笑い合う。
 「いやー、危なかったでござる」
 「全くだ。皆が出てきてくれて助かったよ」
 「……疲れた…」
 はというと、もう何をする気力も無く、呆然と立っていた。その場に座ることすら面倒なくらいに疲れていて、頭の中は部屋に戻って寝る事でいっぱいだった。もう寝よう早く寝よう、お風呂は明日にしよう、そんなことを考えていると。
 「セッツァー、飛空挺は大丈夫だったか?」
 「!」
 その名前はをもう一つの現実に引き戻した。皆の話し声や風の音で決して静かとは言えない甲板で、なんとかセッツァーの声を聞こうと、全神経を耳に集中させる。
 「飛ぶのに問題は無いとは思うが、調べてみないと何とも言えねえな。当分、空の旅はお預けだ」
 幸いセッツァーは飛空挺のことで頭がいっぱいだ。さっき正直に告白しようと思ったばかりだけど、彼はそれどころではなく、もとても疲れている。後日二人きりになった時、ちゃんと言おう――そう思い、とりあえずは部屋に戻ろうとした。
 そろりそろりと歩き、動かないデスゲイズの前を横切った時、もわんと、生臭い空気に包まれた。
 何かが腐ったような匂いに思わず息を止め、口を手で押さえた。戦いの時は気付かなかったけれど、これがデスゲイズの体臭、それとも死臭なのだろうか。さっきまであんなに強く恐ろしく、まるで不死身かのように思えたのに、死んだらそれも終わりなのかと、は奇妙なあっけなさを感じた。
 でもそれはわたしも同じかもしれない、ともは思った。
 死んだら残るのは躯だけで、それ以外は何にも残らないのだろう。そのうち躯も風化し、存在そのものすら忘れられてしまうのだ。
 疲れていて難しい事を考える余裕はないはずだった。それなのに、不思議に思考は止まらない。
 忘れられるということは、もう元々なかったのと同じ事ではないか。目に見えるものだけでなく、仲間達との絆、彼への特別な想い、今までの自分の時間とともに積み重なってきた何もかもが、死んだ途端なかった事になってしまう。
 『それなら、必死に生きる意味ってなんなの』
 体中に虚しさが広がっていく。大事なものが全部なくなるなんて、想像しただけで恐ろしく、悲しい。けれどこの悲しいと思う感情もきっと無駄なのだろう。頭を振って考えるのをやめようとしたけれど、悲しい想像はどうしてだか、少しも止まらない。
 死ぬ瞬間、きっと自分は失う悲しみを強烈に味わうのだろう、と思った。それを味わうのはいやだった。じゃあどうすればいいのか。考えたの頭に浮かんだのは、「失うのなら何も持たないままの方が楽かもしれない」ということだった。
 長く生きて多く得た大事な想いを手放すのと、短い生でも失うものが少ないのと、どちらが幸せだろう。
 『結局人はいつか死ぬんだから。早いか遅いかの違いだけじゃない。それなら、』
 結局最後に全部手放すのなら、失う痛みが軽いうちに終わらせたい。止めたい、生きるのを。
 何かがにやり、と笑う気配がした。それはの思考がそこにたどり着くのを待ちかまえていたように、じわじわと気配を濃くしていく。何かの気配が濃くなるほどに足元はおぼつかなくなり、ついには立つ事すら億劫になって、甲板に倒れた。何だこれ、と思う間にも、意識がどんどん遠のいていく。


 「!」
 セッツァーの声が遠くで聞こえる。
 背後で仲間達が何か叫んでいた。「5の倍数…」「特殊な呪文…」と、会話の断片が聞こえるけれど、それがどういう意味なのか考える事は、さして重要ではないように思えた。
 「おい、しっかりしろ、!」
 名前を呼ぶセッツァーの声に応えられないまま、ユーリは意識を失った。


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