「あー、いらつく」
 甲板で煙草を吸いながら、セッツァーは吐き出すように呟いた。空は赤黒く、生ぬるい風が頬を撫でる。さっきまで談話室にいたのだが、不愉快な場面を目にし、逃げるように甲板に出てきたところだった。外の空気を吸えば少しは気分もましになるかと思えば、禍々しい赤のせいで返って鬱々としてしまう。かと言って中に戻る気にはなれず、そのまま煙草を片手に甲板に寝転び、目を閉じた。
 「何がいらつくの?」
 声が降ってきて目を開けると、いつの間に来たのか、が覗きこんでいる。清い水のように澄んだ彼女の声質は決して嫌いではない。その声で歌うように話しかけられ、やや不機嫌が和らぐのを感じながら、セッツァーは返事をした。
 「談話室だよ。お前もいただろ。見てなかったのか?」
 は意味が分からなかったのか、目をぱちぱちさせてさらに尋ねてきた。
 「あれって何?見たのかって何を」
 隣に座った所を見ると、疑問を疑問にしたまま帰る気はないらしい。観念して起き上がった拍子に煙草の灰がぽろりと落ちて気付けば、ろくに吸ってもいないのに火が消えている。吸殻をどうするか迷っていると、すっと目の前に灰皿が差しだされた。
 「煙草持ってるのに灰皿置きっぱなしで出て行ったから、持って来た」
 「……悪ぃ」
 談話室にいる間、は離れた所で魔石を磨いていたから、出て行く所を見られていたとは思わなかった。ぼんやりしているように見えて、この女は意外に周りを見ている。
 「……さっき、談話室にセリスとロックが入ってきたろ」
 しかしながら灰皿まで持って来たという事は、彼が煙草の煙や吸殻の始末を口実に逃げるのを防ぐためでもあるのだろう。何がそんなに気になるのか不思議に思いながら、洗いざらい話すことにした。それに彼が漏らした本音を、彼女は口止めしなくても黙っていてくれる。短い付き合いながら信頼している相手でもあったので、話してもいい気分になっていたのも事実だ。
 「俺の座ってるソファーの前に、二人で座ったよな」
 「うん。エドガーとかマッシュとか、何人かで買い物に行ったって言ってた」
 「で、買い物してきた物を袋から出しながら、会話をしてた」
 「うん。ロックはバンダナ何枚か買ってたね。セリスはバレッタとか服とか買ってた」
 「それだよ。俺の目の前でそういうことすんなっての。それでいらついて、出てきた」
の口がぱかんと開き、なかなかに整った顔が残念な事になった。理解できないのが見え見えなその顔を見て、舌打ちしながら先を続けた。
 「『あの店美味かったな』『ほんと。また行きたいわね』『じゃあまた行こう。今度は二人で』ハァ?『この服安かったから買っちゃったけど、少し派手すぎないかしら』『……似合ってるぜ』『えっ…今なんて』『な、何でもねえよっ』ハァ?」
 「うん…お熱いよね。でもいいんじゃない?幸せそうで」
 「分かってねえな。俺の前でいちゃついてんのが許せねえんだよ」
 「なあんだ。ようは妬いてたんだ。ていうか、まだセリスのこと好きだったの?」
 からかうように言われ、煙草を灰皿にぐちゃぐちゃに押し付けた。これからまた弁解しないといけないのが面倒臭い。
 「そんなんじゃねえよ。セリスはいい女だが、今更あの二人の間に割って入れるとも思っちゃいねえ。昔を思い出しただけだ」
 セッツァーは、自分がこれまでいかに女に不自由しなかったか、言い寄られた女の数をやや多めに誇張しながら語った。はぴんとこないのか、話し終わっても困った顔をしている。馬鹿ではないが、察しが悪い。
 「つまりだな。今までは見せつける事はあっても見せつけられる事は無かったんだよ。いらついてたのは目の前でいちゃつかれたせいで、妙に人恋しくなっちまったからだ」
 「彼女が欲しくなったってこと?」
 「……そうだ」
 もう全部話したから、これ以上聞かれても何も答える気はないことを態度で示した。甲板にまた寝転がり、ひしひしと感じる視線も無視し、空を見上げ目を閉じる。
 「なってあげようか」
 「あ?」
 よく聞き取れず、目を開けて聞き直そうとして、少し驚いた。の顔がすぐそばにあったのだ。目の前というには遠く、上から覗きこむというには近い位置に。
 「わたし、セッツァーの彼女になってあげようか」
 ご丁寧にもう一度言ってくれたので、言っている事は聞こえた。けれど今度はその意味が理解できず、沈黙した。
 意図を探ろうと眼を見つめ返したが、海の底のように深く静かな黒い瞳からは何も読み取れなかった。分かったのは、そこに映っている自分が、ひどく怪訝な表情を浮かべている事だけだった。セッツァーが理解できていない事には気付き、その途端表情がきゅっと険しくなり、形のいい唇がへの字に結ばれた。
 どうして分からないのかと文句の一つも言われるのだろうか。それなら、お前の言う事は唐突過ぎて意味が分かんねえんだよ、とでも返そうか。
 そんなことを考えているうちに、離れた位置にあった顔がぐっと近づき、さらりと音がするように黒い髪が揺れた。甘さと爽やかさの混じった髪の匂いは思いのほか彼好みで、急に満たされた気分になって、つい、目を閉じた。


 お互いの唇が、軽く触れた。


 にとって、セッツァーは出会った時から特別な存在だった。己の力で人生を切り開いている、自分とは対極にある生き様に好意を持っていた。
 最初は薄い唇から出てくる皮肉や荒っぽい言葉を恐ろしく感じたものだ。けれど、怪我した仲間を庇って自分が怪我したり、帰ってこない仲間を何時間も待って、待ち切れず文句を言いながら迎えに行ったりと、単に優しさを示すのが下手な人なのだと気付いてからは、強いだけでなく可愛い所もある人だと思うようにさえなった。
 ある日の夕方、甲板で煙草を吸うセッツァーの姿を見つけ、近づいて話しかけようとして、どきりとしたことがある。その時の彼は今まで見た事も無い、ぞっとするような暗い顔で星空を眺めていて、その空っぽな表情に胸が痛くなった。知らない一面を見たことで、彼も強く自由なだけではないのだ、と初めて知った。が人に軽く言えない過去を持つように、セッツァーにも誰にも話さない過去があり、それを今も抱えている。
 冷めているようで熱く、冷たいようで優しく、強く自由に見えて痛みを抱えている、矛盾だらけのこの男を知るたびに現れる、痛くて気持ちいい感情の名前に気付くのに時間はかからなかった。
 自分の気持ちに気付くと、今度は彼の目が自分を素通りして他の仲間を見るのが気になり始めた。
 彼が傷つけないよう優しくするのはティナで、強引に誘惑するのはセリス。に対して冷たい訳ではないが、あくまで友人や仲間として扱われるだけだった。信頼されているのは分かる。あまり言いたくないような事でも、二人きりになると面倒くさがりながら打ち明けてくれるのだから。ただ、それ以上の存在になれないのが嫌だった。
 そんなもやもやを抱えながら魔石を磨いているときに見たのが、急に談話室を出て行ったセッツァーだ。どうして不機嫌になったのかなんてわざわざ聞かなくても気付いていた。と他の男性が目の前でいちゃついていても、何も起きなかっただろう。目の前にいたのがお気に入りのセリスだったから、あんなに不機嫌になったのだ。
 追いかけて彼の口から直接聞いた不機嫌の理由は、半分当たっていて半分間違っていた。
 当たっていたのは目の前で見せつけられたから、という部分。違っていたのはそれがセリスだから不機嫌になった、という部分。
 緊張を隠しながらセリスを好きなのか聞いてみると、そうではないと言われた。あっけに取られていると、補足するかのようにセッツァーは、自分がどれだけ女性に人気があったのか語り始め、その頃と今の状況の差を振り返り、恋人が欲しいのだと打ち明けた。
 「なってあげようか」
 不思議なくらい落ち着いた気持ちで声を出す事が出来た。はぐらかされたり変な目で見られるかもしれない事も想像できたのに、それでもいいと思えていた。もうセリスのことを狙っていない、と聞いて、心のたがが外れたのかもしれなかった。
 「わたし、セッツァーの彼女になってあげようか」
 ところが、だ。至近距離で見つめ合っても、セッツァーは何のことか分からないような顔をしている。
 こんなに近くで気持ちを言葉にしているのに伝わらないなんて、自分の存在は、彼にとってなんて軽いんだろう。虚しくなっていると、何故か急にセッツァーが目を閉じた。
 もう、わかってよ。口に出す代わりにキスをした。ロマンチックな気分の欠片も無い、怒りにまかせた行為だった。
 唇を離したが見たのは、驚くくらい間抜けな顔をしたセッツァーだった。
 普段の冷めた表情はどこへ行ったのか、まんまるに見開かれた細い目。ぱくぱく動くくせに言葉の一つも出ない薄い唇は、故郷で見た、水揚げされた魚の口の動きに似ている。あまりに滑稽で笑いたくなるのを堪え「やっぱり気付いてなかったね」と囁くと、ぱくぱく動いていた彼の口はぱかんと開いたままになった。
 あ、駄目、我慢できない。
 「あっはははは!」
 どうしても堪え切れず、は笑った。セッツァーの顔がおかしかったのもあるが、どちらかと言えばひと泡噴かせてやった達成感を体の内に押さえておくことが出来ず、思い切り発散したくなったから笑った、と言った方が近い。仕方もないことだった、こんなに近くにいるのに、ほんの数分前まで、二人の心の距離は遠かったのだから。
 しばらく笑い続けていたけれど涙をぬぐった拍子に、セッツァーが、理解できないものを見る目をしているのが見えた。その途端興奮は波のようにひき、代わりに気まずさと後悔がどんどん膨れ上がってくる。ようやく、とんでもない事をしたことに気付いたのだ。
 どうするか迷い、が取った行動は…笑いながら来た道を引き返すことだった。


 部屋に戻ってからも、の頭の中は後悔で一杯だった。
 恋人が欲しいならなってあげるなんて、上から目線の挑発。隙をついてキス。しかもその後爆笑。どこをとっても最悪である。
 「もしかしてこれが、痴女というやつなんじゃ…」
 「何か言った?」
 縫い物をしていたティナが顔を上げた。
 「あ、何でもない。独り言」
 「……何だか顔が赤いわ」
 「え!?そ、そうかな」
 ティナがじっと見つめてくる。何があったのか知らないにしても、勘のいい彼女のことだ、の動揺に気付くかもしれない。
 「もしかして風邪?」
 「え」
 「甲板に出てたから体が冷えたんじゃない?暖かくしておいた方がいいわ」
 「あ、う、うん、そうだね」
 言われたとおり、上着を一枚羽織り、手近にあった本を読むふりをして顔を隠した。幸いティナはそれ以上何も追求せず、の動揺にも気付いていない。それをいい事にさっきのセッツァーの顔を思い出して、自業自得とはいえこれからどうしたらいいのか途方にくれた。
 意外に人の輪を気にする彼の事だから、表面上は何事も無かったようにふるまうのだろう。けれど心の中ではきっと痛い女だと思ったに違いない。嫌われてもおかしくない。
 自分で自分の想いを壊してしまった。超えてはいけない線を越えた代償は大きかった。


 ファルコン号で食事をする時、自然と仲のいい者同士が並んで座ることが多い。の場合は大抵ティナとセリスに並んで話に花を咲かせたり、ガウの隣に座り、作法を教えながら食事をする。誰と隣になっても、楽しい夕食である事に変わりはない。
 今日は誰の隣が開いてるかな、など考えながら食事室の扉を開けたは、思わずまた扉を閉めた。少し遅れたせいか、彼女以外のメンバーが全て席に着いていて、よりによってセッツァーの隣だけが空いていたのだ。
 見間違いの可能性を信じ、もう一度扉を開ける。悲しいことに見間違いなどではない。とりあえず数日はセッツァーには気まずくて近寄れないのに、まさかこんなに早く接近する羽目になるとは思わなかった。
 他の仲間に不審に思われる前に席に着き、隣を見ないようにしてフォークとナイフを取った。食事中、皆がロックの冒険話に聞きいっている間に黙々と食べ物を口に運んだ。こうなったら早く食べて早く部屋に戻ろう。
 素早く手を動かしていると、さわ、と脚に何かが触れた。
 手を止めてテーブルの下を覗きこもうとしたけれど、軽く触れた程度だったので、誰かの足が当たったのだろう、とまた食事を再開した。
 さわさわ。
 また、何かが触れた。
 再び手を止める。触れている何かも止まる。また手を動かす。何かも動く。足先に軽く当たる程度だったそれはふくらはぎを撫でるように上下し、そのうち脚にまとわりつくような動きを始めた。
 『何これ…』
 まるで楽しむような動きにいやらしさを感じ、思い切ってテーブルの下を覗くと、それの正体はセッツァーの足だった。椅子の下に靴が片方転がっていて、靴下だけの足をもぞもぞ動かして、相変わらずふくらはぎを撫でている。
 「馬鹿、何やってんの」
 「何ってお前、誘ってるに決まってんだろ」
 「はぁ?」
 セッツァーはにやりと笑ってまた足を動かした。自分の脚との脚を絡めてきたので睨みつけると、懲りるどころかテーブルの下で見えないのをいい事に、今度は手まで出してのスカートを引っぱり始めた。ばれたというのに、いやばれたからなのか、さっきよりも大胆だ。
 「なあ、昼間のあれはいったい何だったんだ?」
 「あ、あれは一時の気の迷いで…忘れて欲しいかなと」
 「その気の迷いに振り回された俺の立場はどうなるんだ?ええ?」
 ぐい、とスカートを思い切り引っ張られて、テーブルの下で自分の脚がむき出しになっているのが分かり、羞恥では赤面した。
 「そういう風にからかうの、やめてよね」
 「あ?」
 「別にわたしのことなんて、何とも思ってない癖に……」
 「んなわけねえだろ」
 酔っ払いのような軽さの口調が急に真剣になった。恐ろしいほど低い声は、身体の奥まで震わせる。
 「後で俺の部屋に来な。大人をからかったらどうなるか、教えてやるよ」


 結局は、セッツァーの誘いを断る形になった。
 向かいに座っていたティナがの赤い顔に気付き、さっきの風邪がひどくなったのではと心配してくれて、それをいい事に「用心のために早く寝るから」と逃げるように帰って来たのだ。
 けれど、あの後セッツァーの部屋に行ったらどうなっていたのだろう、とは考えていた。何しろ相手はどれだけ女性に囲まれ、彼女たちを満足させてきたかあんなに自慢していた男だ。話、なんて生易しい用件で済むはずなどきっと無かった。
そうならなくて良かったという安堵と、これで良かったのだろうか、という疑問で一人悶々としていた。何とも思っていない癖にと言ったら、そんな訳はない、と確かにセッツァーは言った。だからもし、彼の誘いに乗っていれば、二人の関係は全く違うものになっていたのかもしれない。正解が分からなくてぐちゃぐちゃする頭を抱えていると、ノックの音がした。この控え目な叩き方はティナに違いない。心配して様子を見に来てくれたのかと、何の疑いも無く扉を開けた。


 「よお、風邪の具合はどうだ?」
 「ひい!」
 「心配だから見舞いに来てやったぜ」
 扉の向こうにいたのは、凶悪な笑顔を浮かべたセッツァーその人だった。


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