気まずいままに終わってしまった夜が明け、何となくぎこちない空気が漂う朝食の時間を終え、一同は出発することにした。
「そろそろ行くか。はあまり人目に付かない方がいいから、そのフードで顔を隠しとけ。あとよかったら、これ、掛けとくといいぞ」
マッシュはなるべく自然に、こっそり買っておいた銀縁眼鏡を取り出してに渡した。早速眼鏡をかけ始めたので見てみると、普段と印象ががらりと変わる。見慣れている自分でも一瞬誰か分からないほどだ。
「これは……なんて賢そうな…わたしじゃないみたい…」
盾を鏡代わりにして見た自分の顔に満足したらしい。はマッシュに続いて立ち上がった。が、ふらついた。背中にカイエンがぶつかってきたのだ。
「おお、すまぬ。久々の陸地で足元が少しふらついてしもうた」
大丈夫だよ、とが答えた途端、カイエンが足元から崩れ落ちた。
「疲れてたんだろうな。一度に色んな事が起こりすぎた」
「それに水中での移動が多かったもんね…体も冷えるし、結構しんどいから…」
「カイエン、苦しそう」
倒れたカイエンを抱え三人はニケアの宿屋に来ていた。医師の見立てでは、疲れから来る風邪なので熱が下がるまで安静にしていれば大丈夫、との事だった(念のためは棚の陰に隠れていた)。カイエンは顔を青白くして荒い息を繰り返している。とても起き上がれる状態では、ましてや船に乗れる状態ではない。
「…この様子じゃあ、すぐに出発するのは無理そうだ…」
「うん…」
「殿、申し訳ない……あまり長居はしたくないのでござろう…」
カイエンがかすれた声で謝り、は濡れたタオルを絞ってカイエンの額に乗せ「気にしないでいいよ。カイエンさんがこんな状態なのに、無理なんてさせたくない」と心配そうに見つめた。この二人は髪も目の色も似ているし、こんな風に看病しているのを見ると、本当の親子のように見えなくもない。
「わたしはずっと宿に引きこもっとくから大丈夫だよ。買い出しとかは全部マッシュに任せる事になっちゃうけど…」
「分かった。は看病を頼むよ。宿屋の人間に何か頼む時は、ガウに行ってもらえばいい」
「、おれもがんばるから!」
「ありがとう」
不安そうな顔をしていたが、やっと少し笑った。
マッシュが宿屋の台所を借りて作ったお粥を食べさせ、医者から貰った薬をが飲ませて、しばらく経つと、カイエンは静かな寝息を立て始めた。
タオルを代えようとしたがそっと額に手を当てて「熱、さっきよりも下がってる」と嬉しそうに笑う。確かに顔にも大分血の気が戻っていて、もう心配する事はなさそうだ。安心すると急に腹が減ってきた。
「二人とも腹減らないか?それに看病してて疲れただろ」
「そう言えば昼に干し肉齧ってから、何も食べてない…」
ガウは答えるかわりに腹をさすった。ぐるるるる、とオオカミの唸り声のような腹の音が部屋中に響く。苦笑して「食堂に行くか」と二人を誘った。
「ガウ、めし、行く」
「……わたしはいいよ」
「あ、そっか」
散々言われていたのに出歩けない事をすっかり忘れていた。はごめんね、と小さく謝って「宿の人に看病しながらでも食べられるものを頼んで貰えると助かるんだけど…」と遠慮がちに口を開いた。マッシュは笑顔で頷いて、ガウを連れて部屋を出た。一緒に行けないのは残念だが、お互い気まずかった空気がいつの間にか元に戻っているので、それは喜ぶべきことだった。
二人だけの遅い夕食を食べ終わって食堂の厨房を覗くと、客は既にまばらだったせいか、そう忙しくはなさそうだった。たまたま通りかかったウェイターに事情を説明して軽食を頼むと、すぐに用意すると快く引き受けてくれたので、マッシュは食堂の壁にもたれ、ガウは空いているテーブルに座って、出来上がるのを待っていた。
「お?」
食堂から厨房へ続く廊下の突き当たりに、女性の絵がかけられている。
普段は絵など興味のないマッシュだったが、吸い込まれるようにその絵の前に向かった。
白いドレスを着たすらりとした女性だ。優しげに微笑んでこちらを振り返っている。腰までの豊かな黒い髪に真珠の髪飾りがよく映えていた。輝く白い肌、神秘的な黒い瞳、すっと伸びた鼻筋、珊瑚色の頬と唇。こんなに美しい女性の肖像画を見た事が無かった。しかもただ美しいだけでなく、気品のある、それでいて目の前に立った者を身分問わず受け入れるような、柔らかな雰囲気に満ちている。だけど絵に釘付けになった理由はそれだけではなかった。
絵の女性が、あまりにもによく似ていたのだ。
「お客さん、お客さん!」
肩を揺すられて振り向くと、さっきのウェイターがトレイを持って立っている。頭をかきながら礼を言うと、ウェイターは笑って手を横に振って、気にするなというそぶりを見せた。
「見とれるのも分かりますよ。俺だってどれだけ見ても見飽きないですから」
「凄い美人だな。どんな人なんだ?」
「この町唯一の貴族の奥様らしいんですけどね、何年も前に病気で亡くなったそうです」
似たような話を知っている。と最初に出会った時に聞いた話と同じだ。
『何年も前に母が病気で死んでから、ずっと父に暴力をふるわれてて……』
黒い目に黒い髪、よく似た顔立ち。前に聞いた話と同じ死因。間違いなくこの絵の女性はの母親だ!マッシュは感動を押さえるのに苦労した。は両親の話をあまりしないが、母が生きている間は父の暴力を免れていたというから、きっと優しい人だったのだろう。確かにこんな人が母親だったら自慢だっただろうな、と思った。
「絵の通り綺麗で優しい人だったそうですよ。今でも何かあると、この絵の前でこの人の話題になってますし。俺はこの町に来たばかりなんで詳しい事は分からないですけど」
ウェイターはそう締めくくり「じゃ、俺はこれで」と軽く頭を下げると、厨房の奥へ引っ込んでいった。
「ガウ、おいガウ、起きろ」
「がう……?」
マッシュはトレイを、待ちくたびれてうとうとしていたガウに押し付けた。
「悪いけどこれ、の所まで持って行ってくれないか。カイエンが寝てるかもしれないから静かにするんだぞ」
「マッシュは、どこかいくのか?」
「買い忘れたアイテムがあったから出てくる。先に寝てていいぞ」
ガウに言った後、すぐに食堂を出た。
思いがけずの事が分かって気持ちが舞いあがっていた。素性が分かった事、彼女を育てた母親に絵という形で出会えたこと。ここに来て間もないウェイターでさえ色々知っていたのだから、地元の人間からはもっと詳しい話を聞けるかもしれない。
こんなに舞いあがったのは久しぶりだった。舞いあがりすぎて、大事な事を忘れていた。
が、ニケアの思い出を話したがらない事を。
昼のニケアは、確かに自由都市と言われるだけあって活気があった。店が多く珍しい品物も多く、どの店も客でごった返していた。
昼がそうだったので夜のこの静けさは少し意外だ。灯りと言えば街灯ぐらいで、道を歩いているのは何人かの酔客だけだ。マッシュは男で腕に覚えもあるから、夜の一人歩きに何の危険も伴わない。酔客たちが来た方へ歩いて行くと、思った通りに眩しく輝くバーのネオンがあった。
『バーは情報の宝庫だ。町の人間も旅人も集まり、酔って客の口も軽くなる。マスターが別の客から聞いた情報を持っていたりする。そして魅力あふれるレディに出会える。バーはいいぞマッシュ!』
兄が得意げに言っていたのを思い出し(最後の情報は完全に兄の趣味だと思ったが)、の情報を知りたいマッシュはバーにやって来たのだった。
中は結構混んでいて、やっとカウンター席を見つけて座る事が出来た。客はマッシュを一瞬だけ見てすぐに自分たちの話に戻る。この店に見慣れない旅人が飲みに来るのはよくある事のようだ。変に注目されないのはありがたいが、どの客が旅人でどの客が町の住人なのか区別がつかない。仕方なく目の前にいたマスターに酒を頼み、自分が旅の途中で宿屋に泊まっている事と、その食堂の奥にあった女性の肖像画に興味を持った事を話した。マスターは不審な顔もせずに、グラスを拭きながら淡々と答える。
「あれはこの町の貴族の奥様の肖像画です。大分前に亡くなられましたけど。お客さんみたいに興味を持つ人は多いですよ、どこの誰なんだ、って」
「気持ちは分かるな。しかし本当にあんな美人だったのか?」
「私は奥様が生きてた頃を知ってますが、あの絵そっくりの、それは美しい方でしたよ」
「兄さん、あの絵に興味があるのかい?」
右隣の男が話しかけてきた。見覚えがあるその顔は、昼に道具屋にいた店員だ。何か新しい話を聞けそうで素直に頷くと、「旅の絵描きが奥様を見かけて、ぜひ描かせてくれと頼み込んで描いたらしいぞ」と教えてくれた。マスターも相槌を打つ。
「何しろこの町一番の美人だから、思わず描きたくなるんでしょうね」
「俺は色んな所を旅しているけれど、他の町でも、あの絵の人ほど綺麗な人は見たことないよ」
嘘ではない。マスターと道具屋は嬉しそうに頬を緩めた。の母親はこの町で、今でもかなり人気があるらしい。
「でもどうして奥に掛けられてるんだ?せっかくだしもっと目立つ所に飾ればいいのに」
マスターが、急に声を潜めた。
「実は旦那様…絵の女性の夫が、妻を大勢の目に晒しているようで不愉快だと、絵を壊そうとしまして…」
「あの怒りようは異常だったな。奥さまの取りなしでやっと、人目に付かない所に飾る、と言う事で落ち着いた」
が嫌う理由が分かった気がした。
「……とんでもない旦那だな」
「実は、私も旦那様の事はあんまり…」
「なんだ、また旦那様の悪口か?」
今度は左隣に座っていた船乗り風の男が割り込んできた。マスターは「お前だって好きじゃないだろう」と男の言葉を軽く流す。常連らしい男は、既に真っ赤になっている顔をマッシュに向けた。
「の旦那様は商売はやり手だが、いちいち偉そうなんだよなあ。二言目には自分は貴族だ貴族だっつって。亡くなった奥さまとはえれぇ違いだ」
「?」
「この町の貴族の家の名前だよ」
道具屋が補足する。の本名はだから、・というのか。なかなかいい響きだと心の中で頷く。
船乗り男はさらに続けた。
「だがよ、奥様がいた頃はまだ良かったぜ。亡くなってからの旦那様は、どうもこうもおかしくなっちまった」
「すっかり病気がちになって、今は商売は人に任せてあまり表に出ないそうですよ、家でどうしてるんでしょうね」
妙な事に気付いた。誰もの話をしないのだ。母親は美しくて優しくて町の皆に好かれていた。父親は嫉妬深くて尊大で、あまり好かれてはいない。その二人の子供であるの事なら話題になっても良さそうなのに。貴族の父と娘の不仲は口止めされてでもいるのだろうか。少しかまをかけてみる事にした。
「誰か家族の人が世話をしてるんじゃないのか?兄弟とか、子どもとか」
男達の顔が強張った。
「……子どもが一人いたよ。もうこの町にはいないけどな」
「どうして?父親と仲が悪かったのか?」
「そんなとこだ。まあこの町にいない人間の話をしても仕方ないだろ。それより今度は旅の話でも聞かせてくれよ」
「実は以前、あの絵にそっくりな女の子を見かけたんだ」
道具屋が強引に話題を変えようとしたのを、マッシュもまた強引に遮った。
「黒目黒髪で、これくらいの背丈で、髪の毛を肩の上辺りに切りそろえた大人しそうな子だ。と名乗っていた」
「………」
長い沈黙が流れたあと、かすれた声で船乗りが呟いた。
「お嬢さんだ…」
次の瞬間から次々に質問が浴びせられた。元気だったか、どこで会ったのか、何か喋ったか、次にどこに行くと言ってたか。
それに対して、元気そうだ、フィガロ(ここから遠い場所を言った方がいいと思い、嘘をついた)で会った、宿の食堂で相席になったので少し世間話をした、しばらくあちこちを旅すると言っていた、とマッシュが答えるたびに男たちは、そうかそうか、と嬉しそうに目を細めた。
「元気なら良かった、あんな目に合った後だもんな」
「あんな目って?良かったら教えてくれないか。その子、なんか寂しそうにしていたから気になっていたんだ」
「それは……」
道具屋は船乗りとマスターに睨まれて俯いたが「でもお嬢さんが元気だって教えて貰ったしさ」と言い訳がましく反論する。睨んでいた二人はそれを聞いて気まずそうに目を合わせただけで、彼の言葉を否定しようとはしなかった。
「お客さんが会ったのは、間違いなく、のお嬢さんですよ」
目をかわすだけのやり取りの結果、話す、と言う事になったのだろう。マスターが口を開いた。
「奥様は、って呼んでましたけどね。町ではお嬢さんと呼んでました」
「大人しくて引っ込み思案なお嬢さんだったよ。いつも奥様の後ろに隠れてた」
「だけど可愛い子だった。大きくなったら奥様そっくりになるだろうな、なんてよく噂してたっけ」
船乗りは懐かしそうに続けた。
「奥様が死んでから旦那様は、お嬢さんだけに暴力をふるっていたんだとよ。見たわけじゃないがあの子の腕や脛辺りに痣が出来てたから、そんぐらい誰だって気付く。お嬢さんは身を守るために、自警団に入ったんだ」
「自警団ってのは、町に入ってくるモンスターや、盗み目的の荒くれどもから町を守る団体の事ですよ。この町の元々の呼び名知ってます?自由都市ニケアームって言うんです。どこの国からの干渉も受けない分、自分たちの町の事は自分たちで守るってことで作られたんです。お嬢さんは団の中でも一、二を争う腕前だったそうです。意外ですけど」
から聞いて知っていたが、マッシュはマスターの注釈に、初めて聞いたかのような反応をした。
「まあ、結果的にそれが良かったんだよな」
「良かったって何が?」
道具屋は、勢いをつけるように酒を煽った。
「…お嬢さんは、大きくなるにつれて亡くなった奥様に似ていったよ。あと何年もしたら、あの絵と瓜二つになったんじゃないかな」
「お客さん。考えてみて下さいよ」
マスターが、静かに問いかけた。
「…亡くなった妻を忘れられない男の前に、その妻によく似た女の子がいたら。大人しく、力で押せばどうとでも出来そうな。どうなると思います?」
さすがのマッシュでも、理解できた。
血の気が引いて、全ての音が遠ざかったような気がした。それと同時に腹の底が煮えるように熱い。
顔も見た事のない彼女の父親に、怒りを通り越して、激しい殺意まで覚えた。
大人しくて、素直で、小動物のような可愛さを持った女の子を。
対抗するためでなく身を守るために家を出る、危害を加える相手にさえ手を上げない、甘すぎる程の優しさを持った女の子に、よくそんな真似が。
「まあ、そう青い顔することはないよ」
言葉を失くしたマッシュの肩を道具屋が叩く。
「結果的に良かったって言ったのはな、どうやら未遂だったからなんだ」
「真夜中に家から飛び出してきたお嬢さんを何人か見てるんだよ。何かあった後で飛び出すって考えるより、危ない所で逃げ出したって考えるだろ、普通は」
船乗りの言葉に少しだけ正気を取り戻した。確かに彼女は二人だけの旅の時も警戒はしていたが、極端に怯える、という事は無かった。思い出してみると本人も旅の理由を話してくれた時「酷い目にあうのは目に見えていた。そうなりたくなくて町を出た」言っていた。そうなりたくなかったという事は、何もなかったということだ。
「実際その後のお嬢さんは、必死に逃げ回っていたよ。旦那様は旦那様で、自警団を辞めさせて収入を無くしたり、夜はお嬢さんをどこにも泊めないよう命令して夜の街に放り出し、家に帰ってくるよう仕向けてた。お嬢さんに同情して手助けする奴は多かったが、それを良く思わない旦那様の圧力で、あっという間にお嬢さんを助けようとする奴は消えた。でもよ、」
船乗りの顔が険しくなった。
「手助けしないだけならまだいい。しまいにゃ、本当は襲われたんじゃないか、と下衆の勘繰りをする奴らが現れた。お嬢さんが大人しいのをいい事に、わざわざその話を聞き出そうとする奴もいた。一度襲われたら二度襲われるのも同じってことでお嬢さんにちょっかいを掛ける奴もいた。返り討ちにあったらしいがな」
「町を出る少し前なんか、寝袋を担いで歩いていたお嬢さんの姿を良く思い出しますよ」
マスターが呟いた。
「皮肉なもんです。町の中より町の外の方が安全だなんて」
その後どうやってバーを後にし、どうやって宿屋まで歩いて来たのか、全く記憶が無い。
父親の行為のせいで、居場所を無くして。
挙句、好奇の視線にさらされて、助けてくれる人もなく。
旅の知識も、頼る当ても全くないのに、逃げるように町を出ないといけなかった。
本当なら故郷で平穏に暮らす筈だったのだ、と言う女の子は。
彼女が隠しておきたかった事を、全部知ってしまった。
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