記憶を頼りにしばらく泳ぐと、やがて目的地が見え始めた。
「殿、本当にこっちでいいのでござるか?拙者には崖しか見えんでござるが」
「そう見えるでしょ。でも違うの」
一見ただの切り立った崖のように見える。だけど泳いで近付くと、実は崖の中に、海水で浸食されて出来たと思われるトンネルを見つける事が出来るのだ。
「あった!みんな、こっちこっち」
わたしはあっさりとそれを見つけてみんなを呼んだ。
「おお、なんか秘密の入り口みたいだな」
ヘルメットの中のマッシュの目が輝く。ここはカイエンさんが言ったようにただの崖にしか見えないうえに、海底が浅いから船が近づけない。仮に何らかの方法で近づけたとしても、岩に打ち付ける水しぶきに隠れてしまうこのトンネルは、相当見つけにくい筈だ。
「ここをくぐったらもっと驚くよ。わたしについてきて」
また海中に潜り、暗いトンネルの中を泳ぐうちに段々辺りが明るくなりトンネル内の水位が下がっていく。トンネルを抜け、わたしの合図でみんなが顔を出すと、真っ先に歓声を上げたのはガウ君だった。
「すごい!でっかい水たまりだ!!」
石混じりの砂浜に透き通った青い海。子どものころからの、秘密の場所だ。
波打ち際で服の裾を絞って、はしゃぐガウ君を微笑ましく見つめていると。
「、ニケアに行くにはこの林を抜けないといけないのか?」
マッシュの声に振り返り、記憶をたどりながらわたしは答えた。
「うん。その林を抜けたら草原があってね。草原をしばらく行くと町が見えてくるよ」
「林に、草原か。どれくらいかかるんだ?」
「うーん、林を抜けるのに二、三時間かな。草原は…一時間くらいかかる」
「海を泳いで行ったらもう少し早く着くんじゃないか?」
「うん…泳いで行けば十分くらいで着くよ。だけど港は人が多いから、泳いで到着してびしょ濡れのまま町を歩いたら、どうしても目立つし…」
「そうか…じゃあ野宿だな。ゆっくり休んで、明日は林を抜けて町に行こう」
マッシュは一刻も早くナルシェに行きたい筈なのに、いつもわたしの勝手な都合に合わせてくれる。今だってそうだ。本当にさり気なく、気遣っていると気付かれないように。
カイエンさんとガウ君が食料を探しに行き、マッシュがテントを張り始めたので、それを手伝いながら「ごめんね。ナルシェに急ぎたいのに、足止めさせちゃって」と謝ると、マッシュは「足止めなんて思ってねえよ」と軽く答えた。
「ほら、今日は戦ったり泳いだりして体力消耗してるだろ。もうじき日もくれるし、今から動くのは俺も疲れるし、野宿の方がいいんだ」
「でも、」
「いいから、気にすんなって」
「二人とも、今戻りましたぞ」
カイエンさんが焚き火用の枝と山菜を、ガウ君が木の実やキノコを抱えて林の中から帰って来た。
「お、うまそうだな。が釣った魚もあるし、今夜はご馳走だぞ!」
その豪快な笑顔を見て、こんな時なのに嬉しくなってしまった。彼が笑うと無条件で安心してしまうのだ。
マッシュは手際よく料理を作っていく。
カイエンさん達が取って来た山菜とクルミをあえると、あっという間にサラダができた。わたしが取って来た貝と魚とキノコも焼くと、美味しそうな匂いが辺りに広がる。ガウ君が取って来た果物の中にまだ熟れていない酸っぱいものがあって、その果汁と、海水を煮詰めて作った塩で調味料まで出来た。デザートは柘榴の実で、これも大きくて美味しそうだった。
出来上がった料理を、カイエンさんとわたしはいつもながら美味しく頂いたのだけど、一番喜んだのはガウ君だった。貝や魚は獣ヶ原にないからともかくとして、普段自分が生か、或いは火で焼くだけで食べていた物がこんなに美味しく変わる事に驚いて興奮して、マッシュに抱きついたり浜辺を駆け回ったり、沖に向かって何か叫んだりしていた。
「どうしちまったんだあいつは…モブリズの宿屋の飯も豪勢だし美味かっただろ?」
「目の前で料理が出来ていくのが面白かったのでござろうよ。しかしガウ殿は元気でござるな。拙者などもうくたくたでござる」
カイエンさんが大きな欠伸をした。焚き火で身体は温まったし、美味しいご飯を食べてお腹いっぱいだし、眠くならない訳がない。
「カイエンさん、先に休んだら?」
「しかし殿も疲れておるのではござらんか」
「わたしはまだそこまで眠くないから。どうしても眠くなったら起こすから、それまで寝てなよ」
明日の事を考えるとまだ不安で、眠るためには身体が疲れきってしまうのを待つしかなかった。遠慮していたカイエンさんは、わたしの言葉を聞いてもまだ寝るのを渋っていたけど、マッシュにも「寝れるうちに寝といたほうがいいぞ、カイエン」と説得されて、それならば、とテントの中に消えたのだった。
カイエンさんがテントに入っていくのを見たガウ君は走ったり叫んだりするのを止めた。かわりにしばらく焚き火のそばで砂の城を作ったり、波が寄せては返すのをじっと見たりしていたのだけど、やっぱり眠くなってきたらしい。段々欠伸が多くなり、とろんとした目をこすり始めた。
「ガウ君、眠いの?」
「う…ん」
「寝てていいよ。交替の時間になったら起こすから」
「うん…ねる」
むにゃむにゃ何か言いながらガウ君もテントの中に消えて、マッシュと二人になった。ガウ君がいなくなると急に辺りが静かになる。わたしは立ち上がって、火のそばに干していた服を触った。
「服、乾いたか?」
「うん、これも、これも乾いてる」
乾いた服を何枚か持って、テントから少し離れたところでそれをはたいた。服を畳んでテントに戻ると、マッシュがきょとんとしている。
「何してたんだ?」
「ああ、砂をはたいて落としてたの。本当は真水で洗った方がいいんだけど」
「へえ。さすがに詳しいな」
「港町出身だしね、一応。ところでいい場所でしょ、ここ。魔物は来ないし食べ物も取れるし」
「ああ。どうやって見つけたんだ?泳いで来たのか?陸からは来れないだろ、回りがこんなだと」
「実はね…」
わたしは初めてここに来た時の記憶を掘り起こし始めた。
小さい頃いつものように一人遊びしていると、町はずれの草むらの陰になっている場所に、使われていない地下通路を見つけた。
狭くて暗い通路を虫や蛇、それにお化けに怯えながら通り抜けると、そこにはこの砂浜が広がっていて。
大きな岩が幾つも、遠浅の海をぐるりと取り囲んでいて、後ろを振り向けば林が広がり、昼間でも薄暗い。横はどこまでも聳え立つ崖になっている。
四方全てがこの場所を隠しているかのようで、思いがけず秘密基地を手に入れたようで嬉しくなって歓声を上げながら駆け出した。ちょうど、今日のガウ君のように。
それ以来、ここで一人で遊ぶようになった。泳いだり、貝殻を拾ったり、砂で山を作ったり。その間一度も、誰にも見つからなかった。
段々身体が大きくなって地下通路が通れなくなると、ここに来るのは諦めないといけなかった。その間、母が亡くなり、父の暴力のために家を出て、自警団に入って戦えるようになった。
その間に、町を出るきっかけになった事件が起こった。噂が町中に広まるにつれて、一人きりになれるこの場所が無性に懐かしくなり、林をかき分けてまたここに来るようになった。仕事と住みかを取られてからは、ここが家のようなものだったと言ってもいい。林の魔物を倒して力を付け、そいつらが持っていた僅かなお金を貯めて町に行き必要な物を買い揃え、旅の支度を整えたのだから。
話してもいいこと、まずい事を頭の中で仕分けしながら、マッシュの質問に答えていった。
「へえ。ってことは、あっちの林からもここに来れるのか」
「うん。最初は入るのも一苦労だったんだけど。通ううちに何となく道が出来たから通いやすくなったの。でも出てくる魔物が凶暴だから、町の人はここには来ないんだけどね」
「じゃあ明日はその道を通ってニケアに行くんだな。案内よろしく頼むぜ」
「うん、分かった」
明日ここをどんなに早く出発しても、町に着くのは午後になる。夕方の船が出るまで港付近でじっとしていれば、案外大丈夫かもしれない。
木の枝を炎の中に投げ入れながらそんな事を考えていると、わたしの動きを見ていたマッシュが、唐突に「あのさ」と口を開いた。
「あのさ、。とお父さんとの間に何が有ったのか、詳しく聞いてもいいか?」
心臓が大きく跳ねた。
最初に出会った時以来この話題になる事はなかったから、このまま聞かれずに済むのだと思っていた。動揺していることに気付かれたくない。わたしは質問に質問で返した。
「急にどうしたの」
「いや、全部とは言わないけれど、それなりの経緯を知っておいた方がいいかと思ったんだ」
「どうして」
わたしの声は多分、尖っていたのだろう。マッシュは多少慌て、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。
「ナルシェに着いたらは質問攻めにあうと思うんだ。旅している理由とか、どこに住んで何してたのかとか、どうしてリターナーに入ろうと思ったのかとかさ。中にはが答えにくい質問もあるかもしれない。勿論悪気があっての事じゃない。思わぬきっかけで足元を掬われないように用心に用心を重ねているだけだ。そんな彼らだから、が自分たちの質問に答えられないとなると、不審に思うかもしれない。しかもずっと一緒に旅をしてきた俺でさえ詳しい事情を聞いていないって事になったら、ますます君はリターナーに疑われる。俺が庇えばいいんだが、君の過去を殆ど知らないから、上手く庇って、君を皆に信用させる自信がない」
マッシュはそこで息を吸い込んだ。
「仲間だからと言って全てを知る必要はないと思っていたけれど、俺は君を知りたい。君を守りたいんだ」
このままだと、やっとの思いでナルシェに着いても、わたしは受け入れられるどころか帝国のスパイだと疑われる可能性がある。彼が言っているのはそう言う事だ。ニケアから離れることばかりに気を取られていて、浅はかな事に、その先に待ち受ける出来事を殆ど考えはしなかった。
打ち明けてしまいたい、と思った。全部話して、縋って、受け入れて欲しいと思った。そうすればどんなに心が軽くなるだろう。
わたしは口を開きかけて…、また、閉じた。
「わたし……」
マッシュは、出会った時から優しい人だった。
朗らかで良く笑って、一緒に旅をするのが楽しかった。最初こそわたしを庇うように戦っていたけれど、段々それが無くなっていって、対等だと認めて貰えたようで、誇らしかった。
帝国の基地も、魔列車も、蛇の道も。未知の場所で怖気づくわたしが安心していられたのは、この人がいたからだった。
彼が頼もしく誠実な人であることは十分に知っている。だからその言葉通り、わたしを守ってくれるはずだ。ニケアに着いても、そしてナルシェでも。
だからマッシュの事を、わたしは誰よりも信じているけれど。
本当の事を話した時、マッシュはわたしをどう見るのだろう。
信じてくれるのかな。それとも町の人のように、わたしに問題がある、そんな目で見るのかな。
この人にそんな風に思われたら、きっともう立ち直れない。
炎を見ながら、また、静かに口を開いた。
「父との不仲が原因で、あの町にいたらわたし、死んでしまうから、町を出たの。それ以上のことは何もないよ」
滑り落ちる様に出てきたのは、最初に出会った時の、嘘でもないけれど本当でもない、あの説明だけで。
マッシュの顔が強張ったのが見えたけど、気付かなかったふりをして「炎、小さくなってる。木の枝入れるね」と強引に話題を変えて、手頃な木の枝を二、三本選んだ。
すっと隣から伸びてきた手が、わたしの腕を掴んだ。握った小枝がバラバラと地に落ちる。顔を上げると至近距離にいたマッシュと目が合った。
「の家は、裕福な商人とか貴族とか、そう言う家だろう?」
「え……」
「少なくともただの港町の娘には見えない。港に住む人間にしては肌も髪も日に焼けていないし、食事の仕方も綺麗だった。だからそれくらい分かる」
「それが、どうしたの」
「どうもしない。君が話してくれないから、自分で君がどういう子なのか考えるしかなかった。だけど君の口から聞きたかったんだ。なあ、俺はそんなに信用できないか?」
「そんなことないよ」
「じゃあ、教えてくれよ、君の事を」
炎で温まっている事を抜きにしても、驚くほど熱い彼の手から真剣な気持ちが伝わってくる気がする。今までの優しいマッシュとは違うのが嫌で腕を振りほどこうとしていると、そうはさせまいとするかのように背中に腕を回されて、マッシュに抱きしめられた。
「やだ、離してっ!」
ぞわ、とあの時の恐怖と嫌悪感が蘇る。反射的に、そして自分でも信じられないような強い力で太い腕から逃れると、震えながら自分で自分を抱きしめた。とても恐ろしいものから身を守るように。
「……ごめん」
はっと我に返って声のした方を見ると、マッシュは痛みを堪えているような、苦しいような顔をしていた。
「怖がらせちまって、ごめん」
「マ、マッシュは、悪くない」
「でも、怯えただろ」
「それは……」
「いいんだ。俺は君の事を、何も知っちゃいけないんだな」
「そうじゃないよ、違うよ」
「違わないだろ」
苦しそうな顔。それに重い空気と静かな口調で追い詰められて逃げ出したくなる。自分が彼をこんな風にしたくせに。
「お先に休ませて貰ってかたじけないでござる。火の番を変わりますぞ」
いつの間に起きたのか、カイエンさんが立っていた。立ちつくしているわたしとマッシュの間にすっと入って来て、少し屈んでわたしの頭を撫でた。その目がもう大丈夫、と言っているように見えて、じわ、と涙が浮かぶ。「殿も疲れたでござろう。火の番は拙者が変わるから、もう休んだ方がいいでござる」
カイエンさんの手は優しいのに力強かった。テントに向かってそっと肩を押され、優しさに甘えて、わたしは自分用のテントへ歩きだした。
テントに入って入口を閉じようとした時、一瞬だけ、マッシュと目が合った。
ちょうど風が吹いて炎が大きく揺らめいた。そのせいで、彼の悲しそうな顔が泣きそうに見えた。
テントの外で、カイエンさんの諭すような声と、それに言い返すマッシュの声が聞こえて、両手で耳を塞いだ。
自分が傷つきたくない代わりにマッシュを傷つけてしまった。
マッシュの腕を振りほどいてしまった。あんなに優しい人を父のような人と同じだと思ってしまった。そして。
『俺は君を知りたい。君を守りたいんだ』
わたしを好きだ、と。そう言われたような気がした。そんな筈はないのに。
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