気がつくといつの間にか、住んでいた屋敷の離れに戻っていた。
 さっきまで河原にいた筈なのに、しかも何故か自分の部屋に立っている。あの部屋は家ごと燃やされた筈なのに。どういう事かと首をかしげていると、静かにドアが開いた。
 まるで、あの日の夜のように。
  開けてはいけないと思いながらも、体は吸い寄せられるようにドアノブをひねる。待ち構えていたのは笑みを浮かべた父で、彼女の姿を見とめた途端、逃げる間も与えず襲いかかってきた。何とか逃げ切れたあの時とは違い、剣も手元になく、しかも押し倒してきた父の腕は彼女の力ではびくともしない。なす術もなく服を破かれる音が響いて、それを聞きたくなくて叫ぶことしかできなかった。
 「いやあああ!!!!」
  跳ね起きるとそこは昨日までいたあの河原で、ああ夢だったのだ、よかった、と安堵したは、また体を強張らせ、傍らの剣を掴む。
  人のよさそうな大男が眼を丸くして、彼女を見つめていたのだ。

 はさっきまでの夢と、見知らぬ男が目の前にいる事に対する怯えのため、男はの悲鳴に驚いたために、お互い無言で見つめ合っていた。
 長いようで短い沈黙の後、ほぼ同時に口を開いた。
 「…女の子だったのか」
 「……昨日の人?」
 横たわっている姿しか見ていなかったせいで分からなかったが、大きくて金髪で無精髭、青いピアスのその男は、疑いようもなく昨日の男だ。驚きに見開いた眼は青くきらきらしている。綺麗な色、まるで青空みたい、と思った。
 男は黙ったままのの警戒心を解こうとしたのか眼を細めて笑顔を作ると、屈んで目線を合わせてきた。笑顔になると男は、急に少年のように見えた。
 「挨拶がまだだったな。俺はマッシュ。君は?」
 「わ、わたし、、って呼ばれてた」
 「そっか。いい名前だな」
 母が付けてくれた名前を褒められて、胸の奥がじんわりと温かくなった。どうやらこのマッシュという男は、いい意味で父とは違う気がする。何というか、纏っている雰囲気が。たったそれだけでと自分でも単純だと思うけれど。剣の柄から手を離し、は思わず笑顔になった。
 「…ありがとう」
 礼を言われるとは思わなかったのだろう、マッシュは少しだけ固まって照れ臭そうに眼を逸らし、しばらく言葉を探すそぶりを見せていたが、思い出したようにまたの方を向いた。
 「…いや、礼を言うのはこっちだ、君が助けてくれたんだろ?ありがとな!で、礼代わりと言っちゃ何だが、朝飯作ったんだ、食べてくれよ」
 朝飯、の単語に目を輝かせたに再度笑いかけて、マッシュは立ち上がり、テントに向かう。あれだけ頑張って張ったのに結局使わずじまいのテントだった。そう言えば道具屋には張り方だけを熱心に聞き、畳み方は聞き忘れていた。どうやって畳むのだろう、適当に畳んでいいのかしらと考えながら歩いていると、だんだんいい匂いが漂ってきた。それも干し肉を炙ったような香ばしいけれど単純な匂いではなく、夕暮れの街を歩いている時に明かりのついた家から漏れてくる、色んな食材を使って作った立派な料理の匂いだ。今更ながら空腹を思い出して、彼女はマッシュを追い越してテントに走った。
 「わあ!すごい!ご馳走だ!」
 木の枝に刺さった焼き魚はちょうどいい具合に焼けており、昨日お湯を沸かしただけだった鍋には木の実や野草がたくさん入ったスープが完成している。おまけにその横には小さなリンゴまで、一口大に切られて大きな葉っぱの上に置いてあった。
久しぶりの「食事」に、は歓声を上げた。
 「いいの?こんなにたくさん、ほんとに食べていいの?」
 「もちろん!言っただろ?助けて貰った礼だって」
 マッシュはパチンとウインクして見せる。言葉に甘えてはいそいそとスープをマグカップとお椀に注ぎ分けると、お椀をマッシュの方に置いて、手を合わせた。
 「ありがとう、頂きます!」
 スープを一口しずしずと飲んだ。野草の色んな旨みが出ていて木の実はほろほろと柔かい。彼が持ち歩いている物なのか、ちょうどよく香辛料がきいていてとにかく美味しい。一気に食べるのが勿体なくなって、今度は焼き魚を食べてみた。軽く塩がふってあるだけだったが、屋敷で食べていた魚料理とは違って素朴な美味しさがある。黙々と食べていたはマッシュの視線に気づいて、
 「美味しい!」
と一言だけ叫んだ。マッシュが嬉しそうな顔をして、それにまた笑って、さらに食べ続けた。数日間干し肉だけで過ごした胃袋にとって、こんなご馳走を途中でやめる事なんて、とても出来そうにない。


 「ご馳走様でした」
 パチンと手を合わせて、はマッシュに向かって頭を下げた。
 「喜んでくれて良かったよ」
 うんうん、とマッシュは笑顔で頷きながら、ふと真顔になる。
 「あのさ、」
 「はい?」
 「俺、急いでナルシェに行きたいんだけどよ…ここからどう行けば早いか知らないか?」
 「ナルシェ?どうして?」
 ナルシェなんて、名前しか聞いた事が無い。知っている事と言えば、ニケアから遥か遠い、ということだけだ。
 「俺は…俺の兄貴は、帝国に対抗するリターナーの一員だ。俺も兄貴を助けるために仲間に加わった。理由あってナルシェに向かう途中で流されてここに着いて、に助けられた。だから、今からナルシェに行こうと思っている」
 「帝国…リターナー…」
 町からあまり出た事のないも、帝国とドマが戦争をしていることくらいは知っている。ニケアでは長い間交易で交流があるドマを支援する者が大半だったが、最近は帝国有利と見て密かに武器を売り捌く者もおり、または勝った方を相手に商売をするために今は様子を伺っている者もいて、商人が多数を占める町らしく、結局は利益重視という考え方が主だった。もちろん、帝国と戦うリターナーという存在は、あの町では噂程度にしか聞いた事が無い。
 「ナルシェへの行き方は、ごめん、知らない…」
 「そうか……」
 「でもね、ここに来る途中の平原で一軒だけ家を見かけたの。そこの人だったら何か知ってるかも。行ってみたら?」
 「そうだな、他に当てもないし行ってみるか。……まあ俺の旅の目的は、そんなとこなんだけど。は?どうして旅をしてるんだ?これから何処に行こうとしている?」
 肩がビクンと跳ねた。
 それは自身にも分からない。どうして旅をしているのかと聞かれれば故郷から逃げるためで、何処に行くのかと聞かれれば、ニケアからなるべく遠い場所、としか答えられない。正直に説明しようとすればどうしても父の愚行を話す事になる。
 「うーんと、モブリズ?って町?村?そこに行くつもり。とりあえずは」
 「モブリズかあ。知り合いでも居るのか?」
 「いや、居ないんだけど」
 答えた後でしまった!と思った。後悔した時には遅く、案の定マッシュは不思議そうに尋ねてきた。
 「知ってる人が居ないのに、なんでモブリズに行くんだ?」
 「ええと、それは、わたしのこと知ってる人がいないとこに行きたいなーって…」
 「知ってる人がいたらまずいのか?」
 「まずいっていうか、元の場所に連れ戻されちゃうから…」
 「連れ戻されるってことは、誰かに追われてるのか?」
 「それは、その」
 「……
 急に青い瞳に真剣な光が宿って、マッシュの声が少しだけ、低くなった。
 「何か悪い事でもして逃げてるんだったら、俺は君を、元居た場所に返してからナルシェに行く」
 「……え?」
 「そうでなかったら、本当の事を話してくれないか?もしかしたら力になれるかもしれない」
 マッシュは初対面にも関わらず、リターナーである事を打ち明けてくれた。それはきっと恩人である彼女への誠意であり、信頼でもあり、少しでも急いでナルシェに行かないと、という使命感もあるのだろう。そんな彼に対して、これ以上、でたらめな理由をでっち上げたくない。腹を決めて、言葉を選びながら話し始めた。
 「実は、父とあまり仲が良くなくて。家を出る事にしたの」
 「え!?家出か!?」
 「何年も前に母が病気で死んでから、ずっと父に暴力をふるわれてて、そんなだから仲直りとか考えられないくらい溝が深まっててね。しばらくは家を出て一人で生活してたんだけど、父は地元では権力だけはあるから、だんだん追い詰められて、苦しくなって」
 「……」
 「あそこにいたら、酷い目にあうのは目に見えていたの。そうなりたくなくて町を出た。だから目的もないし、行く所もないの」
 「許せないな。…父親なのに」
 ぼそりと呟いたマッシュの顔は静かな怒りに満ちていて、いい人だな、と思う反面申し訳なくなった。嘘ではないが、本当の事を言っているわけではないのだから。
 でも、とても言えない。絶対に。
 「……まあ、そんなわけよ。ただね、これでも町の自警団にいて剣はそこそこ使えるし、ここに来るまでだって、それなりにモンスター倒してきたから、旅する分には心配ないし、どこかの町に着いたら着いたで何とかなるんじゃないかなとは思ってるの。…多分」
 「そうか」
 マッシュは一言だけ言ってリンゴを齧った。
 深刻なマッシュの雰囲気と、全てを話していない罪悪感で、空気が重い。気まずくなったは「とりあえず出発しないとね。」と言って立ち上がり、テント畳みに取り掛かった。
 最初に地面に打ち込んだペグを次々に抜き始めた。テントがいきなり倒れた。
 ひゃっと叫びそうになったのを必死でこらえ、ポールを布から抜いた。勢いよく引っこ抜いた弾みで滑って転んだ。
 動揺を押し隠してポールを次々に抜き、テントを畳み始めた。その時になってテントの中にまだ荷物を入れっぱなしだったのを思い出しかなり焦ったが、素知らぬ顔で潰れたテントの中に潜り、荷物を取りだした。
 「……
 「何?」
 呼びかけられて、はテントから顔を出した。そこには先ほどの深刻な様子はなく、必死で笑いをこらえているマッシュの姿があった。
 「テントの畳み方、色々間違ってるぞ?」


 そこからマッシュの笑いは止まらなかった。いきなりテントが倒れたのに澄ましていると言っては笑い、いきなりすっ転んだのに澄ましていると言っては笑い、いきなりテントに潜りこんだと言っては笑い、そうやってマッシュが笑えば笑うほど、の顔は赤くなっていくのだった。
 「しょうがないでしょ!説明書、テントの張り方は書いてあるのに畳み方は書いてないんだもん!今までずっと寝袋しか使ってなかったもん!」
 「がっはっは!悪い悪い!」
 謝りながらも笑い続けたマッシュは「うん…やっぱ、それがいいかもな!」と、一人頷いた。何がいいの?と聞こうとした彼女は、笑顔のマッシュに見つめられてその言葉を飲み込んだ。
 「行き先が決まってないなら、もリターナーに入らないか?」
 「え?わ、わたしも?」
 「戦えるんだろ?」
 「まあ、少しは」
 「行くとこもないんだろ?」
 「うん」
 「俺としては旅をするのに少しでも戦える仲間が欲しい。リターナーも、戦える人間は多い方がいいはずだ。にとっちゃ、父親に見つかる心配がない。まさか君がリターナーに入ったなんて思いもしないだろうし。いい話だろ?」
 確かにナルシェなら、簡単に父親にも見つかるまい。それに覚悟していたとはいえ一人旅はやはり不安だ。マッシュのように明るくて親切、おまけに旅慣れていそうな人間と一緒の方がいい。
 「…わたし、そんなに大した事が出来るわけじゃないけど」
 はマッシュの目を真っ直ぐに見た。
 「どうせなら、逃げ回る旅よりも、何かを成し遂げる旅の方がずっといいよね」
 それが返事だった。
 「よし、決まりだ!」
 マッシュはにかっと笑って立ち上がった。そして、のせいで散々な事になったテントを、器用に畳み始めた。


 ごめんマッシュ。わたし、全部話してないのに。
 大きな後姿に、心の中で謝って。
 そうして、一人の旅が、二人の旅になった。


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