「ふう。やっとできた」
 レテ川のほとりに、ようやくテントを張り終えて。
 彼女――は、少し日が傾いた空を仰ぎ見た。
 旅に出てから5日経っていた。  


 今夜はこの川辺で一晩過ごそうと決めた時は、まだ太陽が真上にあった。
 いつも使っていた寝袋は、昨日の夜モンスターの奇襲にあった際にぼろぼろに引き裂かれてしまい、仕方なく人生初のテント張りに取りかかった。それから何時間もかけて完成させたテントは、見た目より安全重視とばかりにペグだけはしっかり固定したものの、やや右側に傾いている。それでも一人で成功させた達成感に浸っていた彼女は、はたと我に返り、野犬やモンスター避けの薪を集めに、意気揚々と森の中に入って行った。
 薪になりそうな木の枝は、幸いすぐ大量に集める事が出来た。しかし似たような景色の森の中を慣れていない者が目印も付けずに歩くのは無理がある。案の定彼女は引き返そうとしたその時に初めて道に迷った事に気付き、モンスターと戦いつつ歩き回った挙句、ようやく微かに水音が聞こえる所まで来た。日は暮れかけていて空はオレンジに染まり、森の中は目の前の枝にさえぶつかりそうなほど視界が悪くなっている。彼女は腰に下げていた松明に火をつけると、水音のする方を目指して歩き、ようやく森を抜ける事が出来た。
 川辺に着いたら着いたで今度は川辺のどこにテントを張ったのか、森を抜けるのに必死で忘れてしまっていた。手際も要領も悪い自分にほとほと情けなくなる。すっかり疲労困憊になりながら真っ暗な川辺を右に左に歩き、やっとテントに辿りついた時には夜になっていた。
 すぐに持ってきた木の枝を焚き火にし、川の水を小さい鍋に汲んでその火にかけた。今日の夕食も大量に買い込んだ干し肉だけだ。お湯が沸いたのでカップに注ぎ、今日は何となく、干し肉を少し火で炙ってみた。香ばしい匂いが辺りに広がったので、恐る恐る齧ってみると、そのまま食べるよりも少しだけ美味しい。噛めば噛むほど旨みが出てきて、やみつきになりそうだ。気付けば4,5枚はぺろりと平らげていた。
 まだまだ腹には余裕がある。6枚目に手を出そうとして、必死でそれを我慢した。大事な非常食、辛いけど節約しなければ。食べたかった肉の代わりにお湯を飲んで空腹を誤魔化した。
 ひと心地つくと、先送りにしていた将来への不安が押し寄せてきた。


 家を飛び出したのはいいが、本当にこれから一人で生きていけるのか。
 おそらく働く事になるのだろう、でも、世間知らずで何もできない自分を雇ってくれる所なんてあるのだろうか。
 そもそも行く当てのない旅なんて、しない方が良かったのではないか。
 「…そんなことない。これでよかったんだ」
 揺れる自分に言い聞かせるように、彼女は呟いた。


 自由都市ニケアーム。通称港町ニケア。
 交通の便が悪いため陸の孤島として知られ、海上貿易・海上交通が盛んな都市国家。海とともに暮らすこの町で、彼女は貿易で財を成した貴族の一人娘、として生まれた。
 父親はどんな人かと聞かれたら、貴族らしく気位が高いです、としか言えない。父親の父親――つまり彼女の祖父がやり手の商人で、どこかの国から爵位を授かったか金で買ったかして港町で唯一の貴族になり、それで生まれながらの貴族となった父親は、プライドだけは高かった。だからそう言うしかなかった。商才は祖父譲りで新しい事業も一定以上の成功を収めていたが、いい父親ではなかった。娘である彼女にも興味を示さず、笑顔を見せた事がなかったので、好かれていると思った事は無い。
 一方の母親はとても思いやり深い人であり、ニケア一の美女だと言われていた。黒く艶やかで、豊かに波打つ長い髪。同じく漆黒の、神秘的な瞳。鈴を転がすような美しい声、優雅な物腰。港町には珍しい、真珠のような白い肌。誰が言いだしたのか知らないが、いつの間にか「ニケアの真珠」と呼ばれていて、彼女もその通りだと思っていた。母が歩くとすれ違う人が皆振り返るのが自慢で、そんな母親の愛情を一番に受けていることが誇らしかった。どういう経緯で父と結婚したのかは未だに謎だ。
 彼女は母親の事が大好きだったが、彼女以上に父親は母親を愛していた。溺愛、と言ってもいいくらいで、娘には見せない笑顔を父親は母親に見せていた。大好きな母を愛する姿を見ていた事で、辛うじて彼女は父親を嫌いにならずに済んでいた。
 彼女が14の年を迎えた頃、母は病で呆気なくこの世を去り、愛する妻を失った父親は、見る見るうちに精神のバランスを崩していった。ある時は怒り狂いある時は泣き叫び、感情をコントロールできなくなって、使用人には手を上げないのに実の娘にばかり暴力をふるうようになっていた。
 娘にばかり手を上げているのを町の人は不思議がったが、彼女は理由を知っていた。錯乱しながら手を挙げる父親は、おまえがいなくなれば妻が帰ってくるんだ、といつも叫んでいたのだから。何がそう言わせたのかは分からないが、生前の母は、父の都合よりも娘である彼女の気持ちを優先させる人だったから、それに対する憎しみもあったのかもしれない。
 父と距離を置いた方がいい、そう思った彼女は、使用人も入れず一人で町の一軒家を借りて住み、都市を守る自衛団に所属して収入を得るようになった。時にはモンスターと戦い、時には町の諍いをおさめ、日々剣の腕を磨いていた。表向きには町を守るため、本当は父の暴力から身を守るために。
 荒れる父親と、父と距離を置きはじめた娘を心配した周りの人々は、新しい妻を娶るよう薦めた。母親が死んでから、3年が経っていた。
 新しい妻選びが始まったものの、しかし父は母を忘れられなかった。どんなに美しい娘も母と同じ黒眼黒髪の娘も父の目に適う事は無く、時間だけが過ぎていった。時が流れるにつれて父の妄執が強くなっていることに、周りの人々も、彼女も、父親自身も気づいていなかった。
 ある時彼女は、久しく帰っていなかった自分の屋敷に足を踏み入れた。昔まだまともだった父が、美しく実用性も十分あると母に誇らしげに見せていた剣を、町を見回る時に携えたいと思い、しぶしぶ許可を貰いに来たのである。
 おそらく1年振りだろうか、久しぶりに見る父はやけに小さく、顔色が悪かった。人の噂であまり具合が良くないらしいと聞いていたが、その頃には父親は仕事の殆どを部下に任せるようにしていて一日を家で過ごす事が多かったため、何かあれば使用人が付いているからと、具合を見に行くこともしなかった。見に行った所で叩きだされるのは分かっていたからだ。
 応接間にいた彼は、が部屋に入った途端息を飲み、眼を見開いた。そんな風に関心を持って見つめられた事など無かったので、自分の家だと言うのに居心地が悪くなる。彼は剣を貰いたいと伝える間も、剣を壁から外して腰に下げる時も、彼女の言葉、動作、姿、少しも見落とすまいとするかのように、ずっと、ずっと、怖いくらいに見つめていた。
 父の異様さが恐ろしかったが、その時は、そんなにこの剣が大事なのか、と思った程度だった。


 剣を貰った日から、数日後のことだった。
 その日彼女は町に侵入してきたモンスター相手に戦い、疲れて帰ってきた。もう夜も更けている。シャワーすら面倒で、革製の鎧だけ外すと着替えもせずベッドに倒れ込み、そのまま寝入ってしまった。
 外がとても静かだったから、起きたのは深夜だったのだろう。
 普段は夜中に目を覚ます事など無い。なのにその時目を覚ましたのは、昼間の戦いで神経がまだ高ぶっていたからだろう。それが結果的に彼女を救った。
 部屋の外で、静かに他の部屋のドアを開け閉めする音がする。なんだ泥棒か、と思った。幸い腕には少し覚えがあるし、剣も装備したままだ。  やがて静かに彼女の部屋のドアが開き、人が入ってきた。
 「…お父様」
 疲れていてカーテンを閉め忘れていたので、月明かりで侵入者の顔が良く見えた。
 が起きているとは思わなかった父親は一瞬驚いたが、すぐににこやかに笑って彼女に近付いてきた。
 こんな夜更けに何の用ですか、どうして急に来るんですか、それにどうしてそんな顔でわたしを見るの?お母様にしか見せなかったような笑顔で。疑問ばかりが浮かび、初めて見る笑顔の父に気を取られているうちに、あっさりと押し倒された。
 一瞬、何が起こったのか分からなくて頭が真っ白になった。
 服を乱暴にはだけさせられ、体を弄られる。耳元に熱い息がかかり、おぞましい感触に鳥肌が立ち、必死でもがいた彼女は、握った剣の柄で父親の腹を全力で突き、家を飛び出した。近くの路地に逃げ込み徐々に呼吸を整え、朝まで一睡もしないままそこで過ごした。  襲われかけたのだ、それも父親に、と嫌でも理解せざるを得なかった。  朝になっても到底家に戻る気になれなかった彼女は、近くの宿屋で朝食を食べて、洗面所で顔を洗った。顔を拭きながら鏡を見て、やっと状況を理解した。この数年間一人で生きていくのに一生懸命で、父より強くなるのに必死で、鏡なんてまともに見なかった。だからその事実に気付けなかったのだ。
 長いまつげに縁取られた黒い瞳、白い肌、薄紅の、珊瑚の色をした唇。髪の長さだけが違っている。彼女は肩の上で切りそろえているが、母は背中まで伸ばしていた。
 思い出の中の母親に似た女が、そこには映っていた。
 そこから、父が干渉してくるようになった。
 最初に、一緒に家で暮らすよう言ってきた。断ると今まで暮らしていた家を焼いた。仕方がないので宿屋を住みか代わりにすると、権力を使って宿屋の主人に無実の罪を着せて拘束した。戻ってきた主人に頭を下げられながら出ていくよう頼まれ、今度は自警団の同僚の女友だちの家を転々とした。数日後父から自警団に警告が入った。仮にも貴族の娘である彼女を家に泊めたりしたら、町から叩きだす、と。途方に暮れた彼女は最終手段として寝袋を買っては街の外で夜を過ごした。寝袋を買う金が自警団の給料から来ていると気付いた父親は自警団に彼女の解雇を迫った。
 ひと月もしないうちに彼女は町で孤立した。
 この頃にはどこから漏れたのか、父親が彼女を妻代わりにしようとした事が、街で密かに囁かれるようになっていた。彼女の境遇に同情する者は多くなり、一方で味方になってくれる者は巻き添えを恐れて減っていった。そのどちらにも、そしてただ見ているだけの人にも共通していたのは、この子はそういうことをされそうになった娘だ、という好奇心や同情、時には好色も混じった目で見てくる事だ。味方が少ないという状況よりも、その目の方が彼女を追い詰めた。
 金銭的も精神的にも孤立させれば彼女が手に入ると父親は思っていたようだ。彼はもはや、娘ではなく、妻によく似た女としてしか彼女を見ていなかった。
 粘つくような視線を受け、早くここを出ないといけないと理解した彼女は、残った金を握りしめて道具屋で装備や持ち物を揃え、その日のうちに町を出た。


 鍛えてて良かった。父の思い通りにならずに済んだ。
 あのままあの町にいたら、体も、心も壊される所だった。出て良かった。
 このあたりのモンスターなら戦い慣れている。少しずつ強くなって、どこかの町で、何とか生きて行こう。
 じわり、と浮かんだ涙をごしごしと拭い、いつの間にか俯いていた顔を勢いよく上げた。
 そして大きな目を見開いた。
 少し離れた浅瀬に、人の形をしたものが流れ着いている。


 慌てて近寄ると、流れ着いたのは熊のような大男だった。
 驚いて乱暴に揺すると微かにうめき声を上げた。それで生きている事がわかり、胸をなで下ろす。
 川の水は冷たくて、男の体も冷え切っている。早くテントに運ぼうと丸太のような腕を持ちあげて引っ張ったものの、彼女の力では川から引き揚げるのが精いっぱいで、しかも河原の上を引きずって運ぶことで余計に男が傷だらけになってしまいそうだったので、早々に運ぶのは諦めた。代わりに男のそばに余っていた木の枝を集めて火を起こし、濡れた体を緊張しながら丁寧に拭いた。
 「う…ん」
 今までうつぶせだった男が、唸りながら仰向けになった。
 「ひゃっ」
 「ん…………」
 起こしてしまったかと反射的に仰け反った彼女は、男がまだ気絶したままなのを確認して安堵し、それをいいことに男をじろじろと観察した。

 今まで見た事がある中で、一番大きな男だった。無造作に束ねられた金髪、鍛え上げられた逞しい体つきやまばらに生えた無精髭、雰囲気は家の使用人よりも港で働く男たちに近いと思えた。服装は旅の武道家のようだったが、単純にそうだと思えなかったのは、顔立ちが意外にも整っていて、おまけにどこか品の良さを感じさせたからだ。耳に青いピアスをしているのも、武道家にしては珍しかった。
 倒れている男がただの武道家のようにも、そのように身分を偽っているようにも見えて、この人も自分のように、身分を変えて旅をする人なのかもしれないと思うと、はわくわくしながらその顔を見つめた。しかし父親の事を思い出して気を引き締める。気絶しているので何とも言えないが、万が一父親と同じような人種で、しかもこんなに大きな男に腕力で無理やり組み敷かれたら、到底逃げられそうにない。
 彼女はテントからブランケットと剣を持って来た。ブランケットを男に掛けて、自分は羽織っていたマントを巻きつけるようにして火のそばに腰掛けた。少し見ただけでは男か女か分からないようにフードをすっぽり被り、剣のつかに手を掛けたまま、そうして男の様子を見ながら火の番をしていたが、しばらくすると、こっくり、こっくりと頭が前に傾きだし、ついには静かに寝息を立て始めた。


 大男――マッシュは、ごつごつした石の感触で目が覚めた。
変な紫色のタコと戦い、しかもあれだけ流れの激しい川に流されて無事とは、よくよく丈夫な体だと自分でも感心する。意識を失っている間にぶつけたのか、痣や傷が増えた体を起こすと、肩から何かが滑り落ちた。
 「毛布?」
 何でこんな所に毛布が、という謎はすぐに解けた。
 目の前の消えた焚き火と、その向こう側で、小柄な人物がうずくまるようにして眠っている。
 顔は見えないが、おそらくあの青年(もしかしたら少年かもしれない)が助けてくれたのだろう。小さく聞こえる寝息が気持ちよさそうで、彼が起きるまで礼を言うのを待つことにした、その時だった。
 きゅるるる。きゅー。
 小さな、可愛らしい音がした。
 何の音だろうと辺りを見回したマッシュは、何度も鳴るそれが目の前にいる小さい人の腹の音だと分かり、思わず吹き出しそうになった。どうやら命の恩人は、相当腹をすかせているらしい。
 助けてくれた礼は、朝飯で決まりだ。
 恩人を起こさないように、マッシュはその場を離れ、森の中へ消えたのだった。


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