久しぶりに戻った故郷は、一見以前と変わりがないようでいて、長居してみれば確実に治安が悪くなっているのが見て取れた。
海や平原に現れる魔物が強くなり、来るはずの旅の商人がなかなか来ないと思ったら魔物の巣の近くで死体が見つかったり、他の大陸に渡る予定だった船が多すぎる魔物を前にして引き返してきたり、という話を聞くことが多くなっていた。まだ近くの町とは商品のやり取りが出来ているけれど、それが出来なくなるのも時間の問題だ。
困っているのは商人の人たちだけでなく、漁師の人たちも同じだった。魔物のせいで近くの海でしか漁ができないから、陸にいる時間が増えた。いつになったら思い切り仕事が出来るのか分からない憂さをお酒で晴らしているみたいだ。わたしが帰ってきた時に聞いた刹那的な笑い声も、多分そういう人たちだろう。
町の人たちが話しているのを聞いて、街にいる間は近くに現れる魔物を倒すことに決めた。魔物に「ここを襲えば餌が手に入る」と思わせないためには、襲い掛かってくるのをひたすら返り討ちにして、ここに近づいてはいけないと学習させないといけない。それにそうすれば経験値もお金も貯まるし、腕も鈍らなくて済む。
そんなわけでニケアについてからの数日間、わたしは朝に町を出て、昼は魔物と戦い、暗くなる前に宿屋に戻り、また朝に町を出て戦いに行く、という非常にシンプルかつ殺伐とした日々を過ごした。そんな日々が続くはずだった。けれど、そうはいかなかった。
まず、町を出て魔物と戦っていたら、魔物に囲まれていた自警団の人たちを見つけ、助けた。それがきっかけでその人達と一緒に戦いに出たり、街中では世界崩壊で壊れた家や修理を手伝ったり、怪我した人の代わりに雑用を請け負った。わたしの素性を知って気まずそうな顔をする人が殆どだったけど、黙々と、そして淡々と作業をしていたら、向こうも何も言わなかった。そのうちお互いに普通に会話が出来るようになり、これで良かったんだろうなと思った。
町を歩けば多少ひそひそ言われたけど、それにも飽きたのかそれどころではない状況のせいか、段々何も言われなくなった。次第にわたしは、故郷を出る時に抱いていた町の人への不信感と警戒心を解いていった。
自分一人で生きようとしても、町の中にいればどうしても人と関わる。当たり前だけど忘れていた事を実感しながら、そんな毎日にも慣れ始めた、ある晩のことだった。
わたしは普段、宿屋の二階の部屋で寝泊まりしている。宿屋の一階は食堂になっていて、希望すれば部屋で食事を取ることもできる。だから今までは食事を部屋に運んでいたのだけど、その晩はたまたま混雑する食堂で夕食を食べていた。疲れていたのもあるし、町の人への警戒が薄れていたせいでもある。それで一人食堂の隅で食事をしていた時、声をかけられた。
「お嬢さん? 帰って来たって噂は聞いてたけれど、本当だったんですねえ」
嫌な感じのする声に顔を上げると、中年の男の人が立っていた。確かこの町で漁師をしていた人だ。かなりお酒に酔っているのか、真っ赤な顔を歪めて笑っている。この人から受けた、品定めをするような不快な視線は忘れられない。
「奥様そっくりになられましたねえ。ここに泊まってるんですか?」
脂ぎった顔のその人は、派手な音を立てて隣の席に腰を下ろす。無言で立ち上がり、部屋に帰ろうとした。
「おっと」
手を掴んで引っ張り上げられて、にやけた顔を近づけられた。お酒臭い息に顔をしかめ、嫌悪感を隠しもせず睨みつけたけど、舐められているのか怯みもしなかった。
「そんなに怖い顔をしてちゃ、可愛い顔が台無しですよ? どうです、一緒に飲みませんか?」
返事代わりに空いている手でグラスを掴み、水を相手の顔にかけた。怯んだ掴まれた手が緩み、拘束が解けた。その隙に逃れて部屋に帰ろうとすると、後ろから大声が追いかけてくる。
「お高く止まってんじゃねえよ! 親父に襲われたくせに!!」
その途端、食堂のざわめきがぴたりとやんだ。振り向くとそこにいた人達がわたしと男を見守っていた。
あまりの静けさに、思い出したくもない記憶が蘇る。わたしはかつて心を病んだ父に襲われそうになり、恐ろしくて必死で逃げた。それを皆に知られたことで街の人の態度が変わり、それもまた恐ろしくて嫌で街を出た。
「尻尾巻いて逃げ出して、どうせ一人じゃ何にも出来なくて、また戻って来たんだろうが。違うか?」
言葉を失うわたしにその人、いや、そいつは続ける。周りの人がようやく動いてそいつを止めに入った。けれどそいつは罵るのを止めない。
「折角だから俺の相手もしてくれよ。一人相手にするのも二人相手にするのも一緒だろ」
男は勝ち誇った顔をしていた。自分の思い通りにならないから、相手の痛い部分を突いて勝ったつもりになっているのだ。わたしは一度俯き、どんなに周りから責められても、決して逃げなかった人を思い出した。
『おい、あれだろ』
『帝国の将軍だったセリス……この国を……マランダを滅ぼした張本人』
帝国との話し合いの際、マランダに寄った時のことだ。わたしに聞こえているのだから、その声は当然隣を歩くセリスにも聞こえていた筈だ。でも顔を下げずに、前を見据えて歩いていた。
ひゅん、と何かが飛んできた。セリスに当たって地面に落ちたのは小さな石ころで、それが合図であるかのように次々に石が飛んできた。セリスは防ぎもせずそれを受けている。どうして避けたり防いだりしないんだろうと思いながら、わたしは飛んでくる石ころを払い落していた。するとたまたま大きめの石が、わたしの額に当たった。
セリスの雰囲気ががらりと変わったのはその時だ。わたしを背中に庇うようにして、周りを睨み回し、大声で叫ぶ。
『私がこの国を滅ぼしたのは事実だ。そのことから逃げるつもりはない』
ふうっと息を吐いて、さらに続けた。『だがこの娘はお前たちに何かしたか? 攻撃するのは私だけにしろ。しばらくは宿屋にいるから、文句があるならそこで聞こう』と。
辺りはしん、と静かになった。セリスはまた前を向いて歩き、わたしはその後姿を追いかける。その後町を出るまで石が飛んでくることはなく、宿屋に人がやってくることもなかった。
後から飛空挺に戻り、聞いていいのか悪いのか迷った挙句に思い切って聞いてみた。マランダを歩くのは怖くなかったのか、と。
『勿論怖かったわ。私は、あの人たちの敵だから』と、セリスは目を伏せて答えた。
『でもセリスは今、帝国と戦ってるじゃない』
『この国の人にとって重要なのは、私がマランダを滅ぼしたという事実だけ。帝国と戦って平和のために力を尽くし、関わった人を必ず助ける、それを全てやり遂げてもその事実は消えない』
『……』
『けれど私は、逃げたくないの』
言葉に詰まって俯いたわたしの額に、セリスの手が添えられる。一瞬淡く光った時には、額の痛みと傷跡が消えていた。
『巻きこんでごめんね。痛かったでしょ』
セリスはそう言って寂しそうに笑った。本当に痛かったのは、きっとセリスの方だったというのに。
「おい、聞いてんのか」
わたしは男を正面から見据えた。呼吸を整え、腹に力を入れる。気分は強い魔物と対峙した時に似ていたけれど、この男はどんな魔物よりも間違いなく弱い。そしてわたしの覚悟は、彼女の覚悟に比べれば、はるかにちっぽけなものだ。
「確かにあの時逃げたのは事実です。あの頃のわたしには反撃する力が無かったから」
わたしが言い返すと思っていなかったのか、男は後ずさった。わたしは一歩踏み出した。
「ここにいたら何を噂されるのか、父や貴方のような人にどんな目にあわされるのか分かり切っていた。だから逃げました。というか逃げる以外に方法はなかったけど」
腰に差していた剣を抜き、男の喉元をぴたりと狙う。
「ちなみに襲われそうになったと言うのが本当なんですけど、信じるのも信じないのも自由だし、貴方がどう思おうとわたしには関係ないし、それに」
決して俯かず、言葉を紡いだ。わたしの声は小さいのに、何故かその時だけ食堂中に響いた。
「わたしが名誉のために貴方と戦うのも、わたしの自由ですよね。でもお店を荒らしたり他の人を巻き込みたくないから、まずは表に出ませんか」
戦ったら酔っ払い一人、余裕で打ち負かせる自信がある。なんなら数人でかかってきても平気だ。いざとなれば魔法もある。もうあの頃のわたしじゃない。
わたしが本気だとわかると、面白いように男の顔が青くなった。
首をひたすら横に振り「ちょっとからかっただけで」「酔っ払ってたから」とぼそぼそ言い訳して、そそくさと宿屋を出ていく。逃げ出すような後姿を見て、大きく息を吐く。
逃げも隠れもしなかった。相手の不快な態度と言葉に、真っ向から対峙できた。どちらも昔は出来なかったことだ。それが、出来た。
達成感を込めて食堂を見回すと、様子を伺っていた人たちは、しばらくぽかんと口を開いていた。その後ざわめきが起こり、やがてそれにも飽きたのか、また自分たちの話に戻っていく。
その日からは、部屋ではなく食堂で食事をするようになった。一部始終を見ていた食堂の人が「ここだったら何かあってもすぐ厨房に逃げられるから」と、厨房近くの目立たない場所にわたし用の席を用意してくれたからだ。特別扱いに気が引けたけど、食事を部屋に運ぶのも面倒になってきていたから、これはとてもありがたかった。
ひと月も経つと、命からがらたどり着いた旅人や伝書鳥の手紙などで、少しずつ世界の状況が分かってきた。
獣ヶ原にあるモブリズの村。魔物や裁きの光から子どもたちを庇った大人達が、皆死んでしまったそうだ。残された子ども達はというと、何故か何度も魔物の襲撃を逃れている。まるで未知の力を持つ何かが村を守っているかのように。
その獣ヶ原の魔物は、以前よりも遥かに狂暴さを増した。それなのに獣ヶ原を通ってニケアに来た隊商の人たちが言うには、そんな場所をたった一人で行動する少年がいるという。隊商が無事にここまで来れたのは、魔物に襲われていると必ずその少年が現れて、助けてくれたから、だそうだ。
貴族の町ジドール。今は目立った被害はないどころか、町の有力者が個人的に優れた画家を探す余裕すらある。そして最近有力者の元に、優れた絵の才能を持つ少女が訪れた。まるで魔法のような筆さばきは有力者をたちまち虜にしたそうだ。少女は旅の仲間を探してジドールに来たらしく、絵を描く対価として、ギルではなく有力者に仲間探しを頼んだそうだ。
ツェンの町の北西では、新しい洞窟が発見された。死者をも蘇らせる秘宝が眠っているという噂だ。洞窟に入ったという冒険者がたまたま酒場に来ていて、話を聞く事が出来た。そこはかなり奥深い上に魔物の強さは桁違いで、入って早々自分たちの手には負えないと諦めて出てきたそうだ。
さらにその冒険者は続ける。
「冒険者仲間にそれを話したら、異様に食いついて来たよ。『ついに見つけた』とか『必ず蘇らせる』とか言いだしてさ。だけど宝を見つけるにはあいつくらいの強さと経験、それに執念がないとダメなんだろうなあ」
よく知っている人達を思い出させる噂を聞いて、無性に誇らしくなる。けれどそれに交じって、信じたくないような嫌な噂を聞いた。
フィガロ城が、忽然と姿を消したらしい。最後に目撃されたのは数週間前、裁きの光を避けるために砂漠に潜る姿だそうだ。おそらく地下で身動きが取れなくなっているのだろう。昔エドガーが「長期間の潜伏にも耐えられるよう設計してあるのだよ」と教えてくれたことがあったけれど、それはつまり、いつかは耐えられなくなる、ということだ。
フィガロの人達を助けたい。訪れる度に良くして頂いたのだし、エドガーとマッシュの故郷だ。わたしに何が出来るか分からないけれど、早くサウスフィガロに渡って情報を集めないと!
焦る気持ちとは裏腹に、相変わらずサウスフィガロへの定期船は出る予定はなく、町を襲おうとする魔物も減らない。わたしはひたすら魔物と戦い、空いた時間には希望する人達に、柄にもなく剣や護身術を教えていた。魔物が落とすお金や町の人からお礼にと貰うお金はほぼ貯金した。定期船が出なかったら、いっそ船を買って人を雇ってでもフィガロに行く事に決めたのだ。船と人件費でいくらくらいかかるのか分からないけど、とりあえずあればあるほど心強いのがお金だ。
その日、わたしは少しだけ機嫌が良かった。町の女の子達に護身術を教えた帰りに、「お嬢様が帰って来てから、町の治安が良くなった気がします」と、嬉しい言葉をかけてもらったからだ。ほくほくしながら、エーテルのまとめ買いをしようと道具屋に立ち寄った。
エーテルは殆どの道具屋で見るけれど、実際にはあまり売れないらしく、どの道具屋でまとめ買いしても「在庫が減って助かる」と喜ばれる。魔力を回復する道具なんて、普通は魔法に近い力を使う人、例えば祈りで人の怪我を治す聖職者くらいしか買わないし、そういう力を持つ人自体かなり少ないからだ。だからこの町でエーテルを買う人はわたししかいない。店にはエーテルの在庫がまだまだあるそうだから、当然買える筈だった。ところが。
「すみませんお嬢さん、エーテルは別のお客さんがまとめ買いしてしまって……今切らしてるんです」
「え、そうなんですか?」
わたし以外に魔力を使う人がいる。親近感を覚えて「珍しいですね。どんな人が買って行ったんですか?」と尋ねると、道具屋の女将さんは何故か機嫌が良さそうに、「ああ、最近やってきた盗賊の一味ですよ」とあっさり教えてくれた。盗賊が店に来るとなれば警戒するはずなのに、女将さんには怯えた様子がまるで無かった。
「盗賊……あの、大丈夫でしたか? 乱暴な真似をされたりしてませんか?」
「心配には及びませんよ、お嬢さん。何しろあの一味は、ボスの躾がいいからねえ」
「……」
思わず黙ってしまったのは、女将さんの声が妙に弾んでいたからだ。どうしてだろう。盗賊が店に来て危険だ!と思ったら意外にまともそうな人達(盗賊だけど)だったから?けれどそれだけで、女将さんが鼻歌でも歌いそうなくらい上機嫌になるものだろうか。それともただ単に、高価なエーテルが立て続けに売れて喜んでいるだけ?
「ただジェフには困りますよ。こんなおばさんを捕まえて『朗らかなレディ、貴女に会う為に俺はここで買い物をしているんだ』なんて言うんだから」
「へっ?」
思わず大きな声が出た。それはわたしの知っている人の言動に、とてもよく似ている。
「ねえ、驚きますよね? 子供を三人も産んだおばさんにそんなこと言うなんてねえ」
「あ、いえ、そういう意味で驚いたんじゃないんです。その、盗賊の頭にしてはなんだか変わった人だなって思って」
「確かに変わってますよ。物は取らない、喧嘩の仲裁はする、酔っ払いに絡まれてる娘を助けたりもしてさ。そのくせ見返りなんか要求しないんだからねえ。しかもほら、さっき言ったジェフ。盗賊のボスなんだけどさ、ちょっと見ないくらいのいい男なんですよ。妙に品があるって言うか、あたしらとは雰囲気が違って。きっと貴族とか金持ちの旦那が、このご時世で仕方なく盗賊なんかに身を落としたんじゃないかしら。まあでも女を片っ端から口説くあの癖は罪作りだね。裏の家の婆さんなんか最近は小奇麗にしてるでしょう?あれ、前に『美しい女性は沢山いるが、こんな世の中で年を重ねた女性が強く生きる姿も同じくらい美しいのですよ』とかなんとか言われたからですよ」
身分ある家の出身、優れた容姿、女性への礼儀、人を心酔させるカリスマ性。これを全部持ち合わせている人を一人だけ知っている。もしジェフが彼だとしたら、エーテルを大量に買う理由も頷けるというものだ。
「あ、でも気を付けた方がいいですよ。お嬢さんみたいな可愛らしい方なら、ジェフも本気になるかもしれませんからね!」
女将さんの言葉に曖昧に笑ったその日から、わたしはジェフと会うために動いた。
けれど彼が道具屋にいると聞いて行けば「今帰りましたよ」と言われ、宿屋の前で女の子を口説いていたと聞いて駆けて行けば、ジェフどころか誰もいない。聞けばその気になった女の子を前にして「用事を思い出した」とさっさと帰ってしまったという。何それ。
このままでは埒が明かない。盗賊の一味の中でも若くて親切そうな(盗賊なんだけど)人に話しかけて、ジェフと会わせてもらえるよう頼んでみた。けれど「ああダメダメ、そういう女の子は沢山いるけど、ボスに断ってくれって頼まれてるんだ。何しろボスは忙しいからさ。あ、でも俺は凄く暇。というわけで、そこでお茶でもどう?」という返事が返ってきた。丁重にお断りしたらあっさり解放してくれて、ボスの躾が行き届いているさまを痛感する。まあそれはともかく、ジェフとは会えない日が続いた。
ジェフに避けられている。薄々感じていた疑惑が確信に変わったのは、ある日のバーでの出来事だった。
夕方になり宿屋に帰る途中にすれ違った人が、ジェフをバーで見かけたと話していた。慌ててバーに向かい、その扉を開けてバーテンダーのおじさんに「ジェフ、ここに来てませんか?」と尋ねる。わたしが彼を探していることを知っているおじさんは「彼なら今来たところですよ」と近くの席を見た。
テーブルには誰もいなかった。
「あれ、おかしいな。そこのテーブルにいたんだけどなあ。もしかすると帰ったのかもしれないな」
おじさんは首を傾げ、わたしに済まなそうな顔で謝った。驚きながらも大丈夫ですと答え、自分のタイミングの悪さを呪いながら出ていこうとした。
「でも変だな。さっき注文を受けたばかりなのに」
「ジェフなら慌てて出て行ったよ。『急にすまない、この埋め合わせはする』って伝えといてくれってさ」
「入ってきたときは急いでいるようには見えなかったけどな」
「そうなんだ。ついさっき、急に逃げるように帰って行ったんだよ」
振り返ると、バーのおじさんの独り言に、近くにいたテーブルのお兄さんが答えているところだった。同時に会えない理由がやっと分かった瞬間だった。
ジェフは明らかにわたしと会わないようにしている。それはジェフの正体がエドガーだからだ。この町にいる彼は確実にフィガロ城の噂を聞いている。偽名を使って盗賊のボスをしているのは、どういう方法かは分からないけれど、フィガロ城に行くために違いない。そのためには、エドガーの正体を知っている人がいるのはまずいのだ……多分。
そんな経緯があったので、ジェフのことは深追いしないことにした。下手に動くと、ジェフがひっそりと町から消えかねない。けれど常に盗賊達に関係する噂には聞き耳を立て、彼らが町を出るという情報を掴んだらすぐに後を追えるよう、荷物の準備だけはしておいた。
それからは単調な日々が続いた。
魔物と戦ったり困っている人の手伝いをして、食堂で夕食をとり、宿屋のベッドに入る。その合間に盗賊が出ていく様子がないのを確認する。同じではないけれど似たような毎日を繰り返すうちに、いつの間にか先を急ぐ気持ちは薄れ、それなりに安定しているこの生活にすっかり慣れた。そして月日だけが過ぎ、いつの間にかここでの生活が落ち着いてから、三か月が経とうとしていた。
そんなある日の夜、ベッドに入ったわたしは、明日は街はずれの塀を修理しに行かなきゃ、とぼんやり考えていた。心地よい疲れを感じながら、すうっと意識が遠のく。
その直前。
「いや、この流れ、ちょっとまずくない!?」
思わず跳ね起き、ついでに叫んだ。思ったより大きな声だったらしく隣の部屋から壁を叩かれる。慌てて口を押さえ、今まで見聞きした噂の内容を思い出した。
エドガー(多分)は、身分も名前も偽り、盗賊を率いてフィガロに戻ろうとしている。モブリズにいるのは……あくまで勘だけど、ティナのような気がする。獣ヶ原にいるのはガウ君で、ジドールにいるのはリルム。秘宝を探しに行った冒険者はロックで間違いない。皆、この世界で必死に足掻いている。
一方でわたしはどうだろう。本当に一生懸命頑張っていると言えるだろうか。
塀を直すのはわたしでなく、もっと力のある人がやった方がいい。町のほとんどの女の子たちは護身術を完全にマスターしている。自警団の人たちは帰ってきた頃とは違い、魔物数体に囲まれたとしても反撃できるくらいの強さは身に付けている。町はとっくにわたしがいなくても大丈夫だ。それなのにジェフに会うのをあっさり諦めたり、既に十分貯まっているお金をさらに貯め続けて、わたしをここに縛り付けていたのはわたし自身だった。
会いたい人たちにいつでも会いに行ける。急にチャンスが舞い込んできた瞬間に感じたのは、喜びではなく恐れだった。皆を探すためには、この居心地のいいぬるま湯から出ないといけない。あれほど逃げ出したかった故郷に、まだ留まりたいと思う日が来るなんて皮肉だ。
先の見えない冒険と、いつまでも変わらない日常と。せめぎ合う気持ちの中にふっと割り込んできたのは、マッシュの言葉だった。
『食堂の奥に、に良く似た女の人の絵が飾られていてさ。誰だろうと思って、色んな人に話を聞いたんだ』
「お母様の絵が、あるんだっけ。そう言えば」
母が肖像画を描いて貰っていたなんて知らなかったし、その絵が何故宿の食堂にあるのか、その訳も知らない。けれどどうしてもその絵が見たくなった。記憶の中でしか見られない母の姿をもう一度見られれば、何かが変わる気がする。わたしは部屋の扉を薄く開け、通路に誰もいないのを確認して、静かに廊下に出た。
暗く静まり返った食堂の通路を、雲の隙間から時々顔を出す月明かりを頼りに、足音を忍ばせて歩く。暖かい季節なのに夜は意外と冷えて、羽織るものを持ってくれば良かったと後悔した。両手で腕をさすりながら食堂の奥に辿り着いて、月明かりを待つ。あの日の夜、月は綺麗に輝いていただろうか。それとも月どころか星も見えなかっただろうか。
……覚えているのは、マッシュの励ましと、これでお相子だと言って大事な秘密を打ち明けて貰ったこと、それに。
一番覚えていることを思い出す前に、やっと月が顔を出した。
「……あ」
艶やかで緩く波打つように輝く、同じ色なのが誇らしかった黒い髪。
その場にいるだけで空気が清らかになるような、すらりとした立ち姿。
どこまでも深みがあって、けれど同時に温かさを感じる、黒い瞳。
真珠のような、とよく形容されていた、白い肌。一体いつ描いて貰ったのだろう。
「おかあさま」
大好きで大好きで、わたしの世界の全てだった人だ。何一つ忘れる筈がないと思っていたのに、いざ目の当たりにすると、母がよく付けていた髪飾り、背景に描かれている庭がお気に入りの場所だったこと、左手に光る結婚指輪の形など、ああそう言えばと思い出すことばかりだった。
優しくて暖かくて、けれど引っ込み思案のわたしを叱咤して来客に挨拶させる程度には厳しかった。町の人に慕われていて、よく自宅の警護をしてくれる自警団の人達とも仲が良かった。その縁で自警団の団長と親しくなり、そのおかげで父から疎まれたわたしはすんなりと自警団で働くことができた。今のわたしがあるのは、全て母のおかげだと言っていい。
たまに作る料理が美味しくて、お裁縫も上手で、何でも出来て何でも知っていた。
止まらない咳に辛そうに顔をしかめる日が増え、出歩くことが減り、伏せることが多くなり、そして静かに息を引き取った。最後に交わしたのは「お水持ってきてもらうように頼むね」「ええ、ありがとう」という会話だ。水を枕元に置き、既に眠っている母の寝息を確認して、部屋を出た。その翌朝、母はどんなに起こしても、二度と目覚めなかった。
そうだ、あの時わたしはとても後悔したのだ。最後だと知っていたら、今までの感謝の気持ちや、わたしが母をどんなに好きかを伝えていたのに、と。けれどどんなに泣いても後悔しても、もう二度と会えない。
あの時の辛さと後悔を思い出し、鼻の奥がつんとする。涙が頬を伝う前に乱暴に拭う。あの晩もこうして泣いて、マッシュが涙を拭いてくれたっけ。壊れ物を扱うように触れる手は優しくて、母以外に信じてもいい人と出会えた、と心の底から思えた瞬間だった。
あの大きな手が恋しい。庇うように前を歩く背中を、また見つめたい。良く通る楽しげな声も、豪快に笑う顔も、闘争心剥き出しの表情も。マッシュのことを美しい思い出になんかしたくない。
言葉を無くしたまま、長い時間絵と対峙していた。届くはずもないのに、これまでの事や出会った仲間たちの事、そしてマッシュの事を母に語っていた。体が冷え切ってくしゃみが一つ出たところで我に返り、鼻をすすって絵の中の母に別れを告げ、来た時と同じように真っ暗な廊下を静かに引き返す。そうして震えながら部屋のベッドに潜り込んだ頃には迷いは消え、穏やかな眠気と静かな覚悟だけが残っていた。
やっぱりあの絵を見に行って良かった。母は、今でも大好きで大好きで、でももう会えない人だ。けれどマッシュや他の仲間たちは、わたしが追いかけさえすればまた会える人達なのだ。あの絵は、そんな当たり前だけど忘れていたことを気づかせてくれた。
じゃあもう、やるべきことは決まった。
手始めにジェフと会ってみよう。彼がエドガーだとしたら意地でも合流しないと。エドガーに会えれば、マッシュにも会える気がする。
次の日、わたしは早速こないだ話をした盗賊のところに行って、ジェフに会わせてくれるよう頼みこんだ。何度も断られたけどわたしが引き下がらないのを見ると、会わせられない代わりにジェフがよく行く場所をいくつか教えてくれた。「今なら道具屋あたりにいると思うよ。この時間は女将さんが店番をしてるから。んとに女好きだよなあ」という事なので、急いで買い揃えた男物の服とフードで変装して道具屋に向かった。後ろで盗賊のお兄さんが「俺はいつでも暇だよ!」と叫んでいたけど、急いでいるので後回しにした。
そしてわたしは、ついにジェフの後姿を捉えた。飛び出すか様子を見るか迷い、もう少し様子を見ることにした。道具屋があるこの通りは人でいつもごった返している。飛び出しても逃げられるだろうし、そうなったらジェフはますます警戒して、二度とわたしの前に現れない。今この瞬間が最初で最後のチャンスだ。
ジェフはブラウングレーの長髪を黒紐で無造作に纏め、古ぼけた黒っぽい鎧を纏っている。格好だけ見れば草臥れた兵士のようだけど、大柄な体格と颯爽とした歩き方、何気ない仕草に洒落っ気があるところ、髪の長さがエドガーと完全に重なった。
気づかれていないことを確認し、ジェフとの距離を詰める。ジェフは道具屋の女将さんと笑顔で別れた後、誰かに呼び止められ、足を止めた。話している相手の姿が建物に隠れて見えないけれど、彼は相手を軽くいなし、向きを変えてこちらに歩き出した。近くに佇むわたしの横をジェフが急ぎ足で通り過ぎる。一瞬だけ見えた横顔は、あまりにも見覚えがあるものだった。
間違いない、エドガーだ。
「ごめんなさい、ちょっとどいて」
突然背後から声がして、とっさに道を開けたわたしの横を、誰かがさっきのジェフ、いやエドガーのように急ぎ足で駆け抜けた。声に反応してそちらを見ると、艶やかな金髪が目に飛び込む。次に「あれはどう見てもエドガーだわ」と女性が低く呟く声が。
突然のことに固まるわたしの横で、さらに別の声が動かした。
「悪い、どいてくれ」
さらに道を開けたわたしのすぐ横を男の人が通り過ぎた。無造作に切った金髪に、周りの人が振り返るほど大柄な体躯、その割りに素早い身のこなし。それに、声。
「マッシュ?」
大勢の人が溢れる通りでは雑音にすらならない、掠れた声だった。当のわたしですら聞き取れるかどうかというほどの、か細い声。既に数歩先にいる男の人には聞こえないはずだった。
けれどその人は振り向いた。最初に出会った時、晴れた日の空のようだと感じた青の瞳が大きく見開かれる。
「……、か?」
人ごみの中でも良く通る声で名前を呼ばれ、気持ちが言葉にならなくて、頷く。硬直していたその人は、ふいに顔を歪め引き返して来た。目の前でわたしをまじまじと見つめるその人は、間違いなくわたしがこの世で一番会いたい人だった。
「……っ!」
涙腺が緩んで、視界がぼやけた。顔が見えないと目の前の人がいなくなってしまう気がして思わず腕を伸ばすと、それに応えるようにマッシュも腕を伸ばしてきた。もうこの人のこと以外何も考えられなくてそのまま広い胸に飛び込んだ。
「マッシュ! 会いたかったよ! ずっと、ずっと」
「! 本当にだ! 良かった……無事で、良かった」
「マッシュも、マッシュも、本当に無事で、」
マッシュの腕の中で泣きじゃくりながら、こんな風に再会するはずじゃなかった、と心の片隅で思った。
あの夜、マッシュが言ってくれた言葉。一番嬉しかった言葉。
『やっぱりは、笑った顔の方が可愛い』
マッシュにそう言われたから、再会する時は思いっきり笑顔でいよう、そう決めたばかりなのに。
前へ
戻る
次へ