人生の中で、こんなことが起こるとは思わなかった。この世界の殆どの人がそう思ったはずだ。
 世界が崩壊する、なんて。

 あの日魔大陸を命からがら脱出したわたしたちは、ブラックジャック号に乗り込んで、ひとまず出来るだけ遠くに逃げる、筈だった。
 でも出来なかった。逃げる途中襲ってきた衝撃波が、ブラックジャック号を直撃したのだ。
 舵を握っていたセッツァーが、見たこともないような恐ろしい顔でこっちを見て叫んだ。何を言っていたのかは分からなかったけれど、どうして叫んだのかはすぐ分かった。
 わたしは宙に投げ出されていたのだ、真っ二つに折れた飛空挺の後部とともに。
 落ちていたのはわたしだけかもしれなかったし、もしかしたら他にも落ちていた仲間がいたのかもしれなかった。だけどそれを確認することもなく意識を失ってしまったから、結局その時どうだったのか、多分永遠に分からない。


 目を開けると、視界がぼやけて見えた。
 何度も瞬きをくり返して鮮明になった視界に広がっていたのは、子どもの頃遊んでいた砂浜だった。新しく出来た仲間たちと、蛇の道を通って流れ着いた場所でもあった。でも見知った場所に流れ着いた安堵より、恐怖の方が強かった。
 打ち寄せるたびに足を濡らす波は意外なほど温く、何より色が違っていた。禍々しいほどに赤黒かったのだ。
 空を見上げ、息を飲む。誰かの瞳を思い出す明るい青はどこにもなく、ただ血のように赤黒い雲が広がっていた。太陽が昇っているのかすら分からない。
 嫌でも分かってしまった。世界は崩壊したのだと。

 しばらく呆然としていた。
 姿を変えた世界、仲間たちが無事かどうか、それ以前にこの世界に人はまだいるのかということ。考える事が沢山ありすぎて、何も考えられなかった。
 一緒に流れ着いた仲間がいればと思って周りを見回したけど、それらしい人影は見当たらない。一人ぼっちになるのは随分久しぶりだった。故郷にいる時は嫌でも一人だったから、それが当たり前だったのに。
 こういう時はいつも、隣でマッシュがおおらかに構えていた。その人が「まあ、何とかなるさ!」と笑っているのを見ると、本当に何とかなるし何とか出来るはずだと思えた。けれど今、わたしの傍には誰も、いない。
 状況を大体把握するのを待っていたように、変な音がした。しかもわたしのお腹辺りから。
「こんな時でも、お腹はすくんだ……」
 ちゃんとした食事をしたのは飛空挺が折れる前の夜が最後だ。空腹の度合いから考えると二、三日は経っているだろう。わたしは腰紐に括り付けていた袋を開け、干し肉を取り出した。何かあった時のために隠し持っていたのだ。
 端っこを少しかじる。海水を吸っていて変な味だったけど食べられないことは無い。勢いに任せて二枚、三枚と平らげていく。
『おれ、いつも腹いっぱい食べる!そうしないと、力が出ないんだぞ!』
 ガウ君がそう言って笑っていたっけ。力が出ない時はたくさん食べた方がいい。当たり前だけど大事な事だ。
 たちまち干し肉を完食した時には、現金なものでやる気も出たし前向きになれた。早速立ち上がり、近くにある筈の故郷に向かって歩き出す。泣くのはまだ早い。
 この世界は地形までもが変わってしまったようで、見慣れない平原が広がるばかりだった。途中で魔物や野犬と何度も戦った。オオカミならともかく野犬に襲われることは殆どなかった。中には首輪が付いている犬もいた。飼い主を失って野生化したのだろうか。それとも魔物の瘴気に当てられて狂暴化したのだろうか。
『インセプ、お手!』
 犬と言えば思い出すのが、手を出した途端噛んでくるインターセプタ―と、まだやっているのかと言わんばかりの顔でやりとりを見ていたシャドウさんだ。わたしは犬好きなのに、昔から一向に懐かれたためしが無かった。むしろ吠えられる。
『まだやってんの? 無駄な努力はやめなよぉ』
 そうしていると、いつもリルムがからかってきた。『インターセプターちゃん、お手』とリルムが言い、インターセプターが素直に従い、その差にわたしはむっとして、リルムは嬉しそうに笑うのだった。
 その声を聞きつけてストラゴスのおじいちゃんがやってくる。リルムを怒るのかなと思ったら「子ども同士仲良くせんか!」と二人一緒に怒られた。リルムはともかくわたしは子どもじゃない!と抗議すると『わしから見れば二人とも子どもじゃ!』と尤もな事を言われてしょんぼりした。
 それがおかしかったのかリルムが笑い、ストラゴスおじいちゃんも笑い、よく見ればシャドウさんの肩も震えていた。結局最後に、わたしも笑ってしまった。
 記憶に残るリルムの笑顔が眩しい。ストラゴスのおじいちゃんのとぼけた喋りを聞きたい。シャドウさんの静かな佇まいが懐かしい。あれはまるで夢のように幸せな光景だった。
 心細くなって来た時、ようやく見慣れた建物が見え始めた。


 フードで顔を隠そうかどうか迷って、結局顔を隠さないことにした。久しぶりの故郷は一見荒廃した様子は無かったけれど、どこか荒んだ雰囲気が漂っている。背後で聞こえた笑い声に振り向くと、昼間なのに酔っぱらいが屯して、人目も気にせず大騒ぎしていた。楽しげと言うより刹那的な感じがする騒がしさだった。
「あ」
 急に近くで、空気の抜けたような呟きが聞こえた。見れば自警団だった頃に一緒に働いていた人が、わたしを見て固まっている。と言っても、話したことはあまり無いのだけど。
さん!」
 その人の声を、と言うかその名前を聞いて、皆の視線が彼に集まり、ゆっくりとわたしに移動する。驚く人もいれば、近くの人とひそひそ話す人もいた。相変わらず粘っこい目で見てくる人もいた。ざわめきの後、辺りは静まり返り、視線と静けさに怯みそうになった。すると唐突にセッツァーの言葉が脳裏に響く。
『いいか、なんかあったら、目で威嚇してみろ』
 あれはいつだったかな。どこかの町で知らない人に絡まれている時に、セッツァーが助けに来てくれて。
『お前は見るからにおどおどしてて弱そうだから、ああいうのに付け込まれるんだ』と前置きした後に、言った台詞だ。
『今度絡まれた時には思い切り相手を睨みつけてみろ。お前は無駄に目力があるから、腰抜けはそれだけで逃げてくぜ』
 そうなのかな。本当なのか確かめたくて、わたしは不快な視線を向けてきた人たちを睨みつけた。一人ひとり、目を合わせて、丁寧に。
 結果はセッツァーの言う通りで、その人たちはそそくさと人ごみに消えていく。うわぁ、と静かに感動し、改めて元同僚の人に向き直ると、その人はさっきよりも驚いた顔でわたしを見ていた。
「ええと、お久しぶり、です。お嬢様、一体今までどうしていたんですか?」
「ちょっと色んなところを旅してて。今さっき帰って来たばかりなんです」
「こんな世界で……よくご無事で……じゃあ、お父様のことは、まだ聞かれてないんですか」
 ぽかんと口を開けたわたしに、その人は「まだ知らないんですね」と言って、少し沈黙した後に教えてくれた。
 父が亡くなったことを。


 家に帰りながら、涙一つ浮かんでこないことに驚いていた。
 幼いころから父親らしい事をしてもらったことは無かった。それどころか父親とは思えない事しかされなかった。
 父親、と聞いて思い浮かぶのはむしろカイエンさんだ。厳しくて強くて、優しくて。わたしの料理を美味しそうに食べてくれて、わたしが話す事を楽しそうに聞いてくれた。
 一度だけ間違えて『お父さん』と呼んでしまった事がある。慌てて謝ったら『良いのでござる』と嬉しそうに笑ってくれた。それが嬉しかった。わたしの父親は、血の繋がった男の人ではなく、心で繋がっている異国のお侍だ。わたしだけでなくガウ君も、そしてきっと彼も、同じようにカイエンさんのことを思っているはずだ。
 そんな事を思いながら家に着いた。見覚えはあるのに自分の家ではない感覚に戸惑いながら呼び鈴を鳴らすと、出てきたのは父の補佐をしていた初老の男性だった。小さい頃に可愛がってもらった人だ。彼はわたしを見るとまるで死人を見るような顔をした。当然か、急に町を出たと思ったら、世界がこんな時にひょっこり姿を現したのだから。
「……ご無沙汰しております。旅から戻って来たばかりなのですが、父が他界したと聞いたので」
 男性の目に複雑な色が浮かんで消えた。喜びと、悲しみと、困惑と、色んな物が混じった目だった。とにかく中に入るよう促されて、わたしは数年ぶりに我が家に帰った。


 父が亡くなったのは、世界が崩壊する少し前だったそうだ。
 花が萎れていくようにゆっくり弱っていき、使用人が交代で世話をしていたある日の朝、一人静かに息を引き取っていた。
 彼は途方に暮れた。なにしろ跡継ぎのわたしは町にいないのだから。だけど葬儀も上げないといけない。父の事業も放置するわけにもいかない。そこで周りの勧めもあり、自分が一時、事業を引き継ぐことにしたのだという。
 男性はまた複雑な顔をした。何が言いたいのか、というか言えないのか、すぐに分かった。
 久しぶりの我が家は見慣れない調度品が増えていた。カーテンや敷物は総じてシンプルな柄のものに変わっていた。父の趣味でも母の趣味でも無いもので、彼は彼の住みやすいように家に手を加えたのが気まずいのだろうな、と思った。
 別に腹は立たなかった。家では何人もの使用人が仕事をしていた。こんな世の中で人を雇う余裕がある事が彼の才覚を物語っていたし、使用人たちの物腰は洗練されていて温かみがある。それは、彼が仕えるのに値する主人だという事を示していた。
 彼はあくまで一時的に事業を引き継いだのだろうけれど、ここはもう彼の場所だ。そもそもわたしは家を継ぐつもりはないし、継いだとしても事業を上手くやれる気がしない。だから家も財産も事業も全部彼に譲る事を伝えた。男性は最初は渋っていたけれど、結局それを受け入れた。
お嬢様は、これからどうするのですか」
「定期船でサウスフィガロに行って、その後フィガロに行こうと思っているんですけど。まだ船は出ていますか?」
 こんな時でも、フィガロだけは大丈夫だと思える国だった。あの国の人たちは、どんな状況でも希望を捨てず強かに生き残っているはずだ。あの国の王様を見れば分かる。明るくて強くて、とても頼もしい人なのだから。それにあそこに向かえば彼と合流出来るかもしれない。合流出来なくても情報くらいは聞けるだろう。
「出ていることは出ていますが、本数は大分減りましたよ。以前出航したのが一年前だから、それくらいは待つことになるかも知れません」
「……そうですか」
 結構待たなければいけないけれど、船が出ないよりはましだ。その間に、わたしはわたしにできる事をしよう。
「じゃあ船が来るまで、宿屋に泊まって、近くに出る魔物を倒しときます。それならついでにお金も稼げるし、町も守れるし」
 そう言うと男性は、目を丸くした。
「いや、あの、女性が一人だと、危険ですよ」
「大丈夫です。危なくなったら逃げますから」
 普通の事を普通に言ったつもりだけど、男性はしみじみとした様子でわたしの目を見つめた。
「何というか、変わられましたね」
 そうなのかな。
 家を後にして、わたしは宿屋に向かった。宿屋のおじさんがびっくりして出迎えてくれて、その後は質問攻めになった。元気だったか、今までどこにいたのか、旦那様が亡くなったのは聞いたか、などなど。
 わたしは質問攻めに弱い。自分のことを話すのはあまり好きではないし、急かされているような気になってうまく答えられないのだ。それで以前、どうすればいいんだろうとロックに尋ねた事がある。
 ロックは初めての人とすぐに打ち解ける人だった。それだけではない。相手が立ち入った(とわたしが感じた)ことを聞いてくると、相手の気分を害せず上手くはぐらかせる人でもあった。それをそのまま伝えると、ロックは「じゃあ伝授してやろう」と得意そうに笑った。
「変に立ち入った事を聞いてくるようだったら、俺は逆に相手に質問することにしてるんだ。『最近変わったことは無かったか?』とか『お前の方こそどうなんだ?』とかさ」
 ロックのようにうまく出来るか自信はないけれど、やってみよう。
「町を出た後に知り合った人達と旅をしていました。せっかくだから世界を見て回るのもいいかと思って」
 リターナーに入った事はさらに質問攻めに合いそうだったので黙っていた。
「それより、ニケアは相変わらず賑わってて安心しました。何か変わったこととかはないですか?」
 おじさんは詮索をやめ、人が多いが治安は悪くなった、どこそこの誰が魔物に襲われて亡くなった、海で取れる魚が減って漁師たちが困っている、と愚痴に近い近況を語ってくれた。宿屋のおじさん自身も、宿で出す食事に使う香草を取りに町を出た時、魔物数匹に囲まれて危ないところだったと言う。この辺の魔物は以前より狂暴になっている。おじさんよく無事だったなあ。驚いていると、「俺も死を覚悟したんだが、たまたま通りかかった冒険者が助けてくれたんだよ。まあその男の強いこと強いこと!」とおじさんが身を乗り出してきた。これはその時のことを話したいんだろうな。自分以外にこの危険な世界を旅している人の話は興味がある。わたしも身を乗り出した。
「いやあ、本当に強かった。まず拳を素早く何発も繰り出してドラゴンに似た魔物を気絶させた。と思ったら男の真後ろにいた鳥みたいな魔物を逆さに持ち上げてジャンプして地面に叩きつけてさ。あれは目を疑ったよ。しかも次の瞬間には構えた手のひらから光を出して魔物を攻撃してるんだ」
 耳の奥が、きいんと痛くなった。
 おじさんの語る人の戦い方は、あの人のそれにあまりにも似ていた。まさか、でももしかしたら。生唾をのむわたしに気づかず、おじさんは機嫌よく先を続ける。
「モンク僧だって言ってたが、豪快で気の良い、男の俺から見てもいい男だったよ。仲間を探して旅をしてるって話だったが、ニケアでは見つからなかったそうだ」
「そう……なんですか。どこに向かう予定なんでしょうか」
「さあなあ。故郷がフィガロだって言ってたから、そっちに行くのかもな。無精ひげはあったが、金髪碧眼ってやつで、とにかくいい男だった。会わせてあげたいくらいだよ」
「……」
「ん? お嬢さん、どうしました?」
「……いえ、わたしも、その人に会ってみたかったな、って」
 上手く笑顔が作れなくて、目の前の紅茶を一気に飲んだ。おじさんは「はは、冗談が上手いや」と笑ったけれど、その人がどんなに強くて素敵な人か、おじさんよりも、わたしの方が知っていた。
 喉元まで出かかった言葉を飲み込み、曖昧に笑う。おじさんはその後も、その人がどれだけ強かったかを話し、わたしはただ調子を合わせて頷き続けた。話が一段落してから空いている部屋を借りたいと言うと、二階は全部空いているからどこでも使ってくれ、と言ってくれた。ただし宿代はきちんと払うようにとも言われた。流石に商人の町だ。


 部屋に入り、荷物を下ろす。
 ここで過ごすと決めたとはいえ、これからどうなるのかも、仲間の生死も、とりあえずフィガロを目指す事にした自分の決断が正しいのかどうかさえも分からなかった。分からない事だらけの一日は仲間との思い出が助けてくれて、何とか乗り切った。けれど折れそうな心を一番支えてくれたのは、あの旅で最初に会った彼との思い出だった。
「生きてた……」
 何度も深く思い出し、その度に彼の面影に縋ってしまいそうで、必死に脳裏から振り払っていた。けれど彼は生きていて、この近くまで来てくれたのだ。
「マッシュ」
 名前を呼ぶだけで、胸が一杯になる。抑えられない衝動に、鼻の奥がつんとした。
 今頼りになるのは自分ひとりきりで、だから泣くのを堪えてきた。辛さとか心細さとかで一気に心が折れそうな気がしたし、泣いたら負けだ、みたいな意地もあった。けれどこれは堪えられそうにない。
「マッシュが、生きてた」
 どんな感情も、極限を超えると涙として溢れ出すという。じゃあこれは涙ではなく、感情が心の器から溢れているだけだ。驚きとか嬉しさとか懐かしさとか、そういう幸せを思い出させる色々な感情が。
 だから今だけは泣いていいよね。自分に言い訳して、わたしは収まりそうにない衝動を抑えるように、膝を抱えて眠った。


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