肺が酸素を求めて、はあはあと荒い息を繰り返している。町から飛空挺に帰ってくるまで全力疾走していたのだから当然だ。
 ひたすらに息が苦しかった。けれどそれ以上に胸が痛かった。さっき見た光景が頭から離れなくて、鋭く深く、何度も刺すような痛みを感じていた。
 思い出したくもなかった。マッシュが女の人と、あんな風に親しげに話している様子なんて。


 飛空挺がサウスフィガロ近くに停まった日、わたしの予定は文字通り真っ白だった。
 冒険に行くメンバーでもなく、食事や洗濯、買い出しの当番でもない。最初はこれ幸いとくつろいでいたのだけど、本は読んでしまったし武器の手入れも終わってしまった。簡単なお菓子でも作ろうと厨房に行ったらシャドウさんが黙々と茹で卵を作っていて、何だか邪魔出来ない雰囲気だったので諦めた。
 窓の外の遠くに見える町を眺めているうちにひらめいた。サウスフィガロに遊びに行けばいいんだ。あの町は色んなお店があるし、行き慣れているからわたしでも迷子にならない。何より治安がいいから一人でうろうろしても安心だ。


 予想通りあっさり町に着き、買い物を済ませて散歩していると、見覚えのある家の前に出た。マッシュのお師匠様の家だ。ティナと買い物に来た時に教えてもらい、マッシュの事なのにわたしが知らなくてティナが知っている事にもやもやしたのを思い出す。ティナに悪気など無い事も分かっていたので、何も言わなかったのだけど。
 もしかしたらマッシュが中にいるかもしれないな、なんて思いながら家を眺めていると、丁度家の扉が開いてマッシュが出てきた。まるで奇跡みたいなタイミングだ。嬉しくなって声を掛けようとした時、巨体の後ろからついてくる小さな影に気付いた。
「すみません、送ってもらって」
「いや、いつもおかみさんがお世話になってるし、大したことじゃねえよ」
 マッシュと話しながら出てきたのは、わたしと同い年くらいの女の子だ。肩までの長さのふわふわした亜麻色の髪に、同じ色の潤んだ瞳。可愛い顔立ちのその子はマッシュの言葉を聞いて、恥じらうように笑った。
 二人が連れだって歩き出し、どうしようか迷ったけど、後を追うことにした。気付かれないように距離を開けたせいで二人の会話はまるで聞こえない。けれど遠くからでも女の子がマッシュに好意を持っているのがよく分かった。何度も髪に手をやり、頬はほんのり赤く、口元を隠して笑う。あの子の「恋している雰囲気」は、マッシュにどれだけ伝わっているのだろう。
 一方でマッシュは、仕草や表情がぎこちなかった。女の子を何度か見てはふいと目を逸らし、かと思えばまた見る。明らかに女の子を意識していて、いつものマッシュではなかった。
 あの二人、一体どういう関係なんだろう。あの子はマッシュの何なの。じりじりと距離を詰めて様子を伺っていると、二人が急に立ち止まった。
「……りがとうございました」
「……や、通り道だし、こちらこそ……」
 どうやら目的地に着いたらしい。切りのいい所で止めておこうなんて少しも思わなかった。そんな配慮が出来るなら二人を見かけた時点で引き返している。むしろさらに近づくにはどうしたらいいか考えたくらいだ。たまたま近くを女の子数人のグループが歩いていたので、これ幸いとグループの一員のふりをしてくっついて歩き、うんと近くの建物の影まで移動できた。わたしが奮闘している間も、別れを惜しんでいるのか、二人はまだ話している。
「私……待ってます」
 うんと距離が縮んだおかげで、女の子の声が良く聞こえた。
「マッシュさんが帰って来るの、待ってますから」
 はっとして女の子を見た。女の子ははにかみながらマッシュを見ている。マッシュも目を逸らさずに女の子を見つめた。二人はしばらく見つめ合ったまま動かなかった。無関係なのは承知だけど苛立ったのは事実だ。なにあれ、二人の世界に入っちゃって、と。
 こんな街中であんな雰囲気出して、ばっかみたい。言いがかりみたいな感想を抱きながら、わたしはその場から立ち去らなかった。というか足がすくんで動けなかった。瞳ですら眼球を固定されたように動かせない。苛立って馬鹿にしていながら、本当はわたしは怯えていたのだ。
 やがて、マッシュの口がゆっくりと動いた。
 それが、わたしの身体を動かす合図になった。これ以上ここにいたら、決定的な場面――マッシュがあの子を受け入れる言葉だとか、二人が抱き合うとか、そういう現実を突きつけられるかもしれない。そんな場面を見てしまったら、立ち直れないほど打ちのめされる。防衛本能のようなものに動かされ、わたしは後ずさりし、ついに駆け出した。二人はまだ話している様子だったけれど、もう怖くてそれどころじゃない。わたしに出来たのは、頭の中で二人の様子と聞こえた会話を反芻しながら、飛空挺まで逃げ帰ることだけだった。


 飛空挺に逃げ帰った後も、わたしは同じことを考え続けていた。
 わたしがマッシュと出会うずっと前から、二人はお互いを知っている。
 あの子は間違いなくマッシュを好きだ。見ればわかる。だから待つんだ、マッシュが旅を終えて帰って来るのを。
 流石のマッシュも、あの子の言葉をただ「帰って来るのを待つ」だけのものとは受け取っていないはずだ。あんなに考えこんでいたのだから。
 もしかしたらマッシュも、あの子のことを。
 考えたくない。頭を横に振っていると「ただいまー」と、マッシュの声がした。
「お、お、お、かえり」
「? ああ、ただいま」
 目の前に飛び出し、ぎこちなく挨拶したわたしを訝しがる様子もなく、マッシュはいつもの笑顔を浮かべた。「あー疲れた」と言って自分の部屋に帰ろうとするので、その前に立ちはだかる。さっきのことを聞きたくない半面、気になって聞かずにはいられなかった。
「マ、マッシュ、サウスフィガロに行ってたんでしょ?わたしもサウスフィガロに行ったんだよ」
「へえ。あそこは治安がいいから出歩くのにもってこいだよな」
「そう! それに、色んな店があるから一気に買い物出来て便利だよね!」
「はは、確かに。今日は用事だけで終わったから、俺も今度は買い物にでも行ってみようかな」
 マッシュはにこにこしながら部屋のドアを開けようとする。
「あああああ!」
「うわっ。どうしたんだ?」
「ええと……あ、お菓子買ってきたんだけど。一緒に食べない?」
「今はいいや、そんなに腹も減ってないし。夕食まで時間があるから、少し寝るよ。じゃあな」
 マッシュは部屋に入ってしまい、わたしはがくりとうなだれた。勇気を持って突撃したのに、どう切り出したらいいか分からない。胸のもやもやはマッシュと話した事で余計に大きくなった。全く収まる気配を見せない。


 セリスが作ってくれた独創的な色のオムライスの味もろくに分からないまま、夕食の時間が過ぎた。
 こんな生殺し状態は嫌だ、とにかく一度マッシュと話さないと!と思い、何とか二人きりになるチャンスを狙っていたけれど、マッシュときたら、エドガーと楽しそうに笑っていると思ったらカイエンさんと真面目な顔で話しこみ、かと思えばリルムとガウ君の遊び相手になっている。二人が自分の部屋に戻り、ようやく近づこうとしたら、今度はセッツァーとロックがお酒を片手にマッシュに近づいた。何だかやけに盛り上がっている。なんで、どうしてマッシュはあんなに人気者なの!
「ああもう!全然話せないよ!」
「どうしたんだい、レディ?」
 笑みを含んだ声に振り向けば、エドガーがにこやかにわたしを見つめていた。片手に彼がいつも使うティーカップを、もう片手にはわたしのコーヒーカップを持っている。す、と差し出されたカップの中で、カフェオレがほわほわと湯気を立てていた。
「今日は冷えるだろう。良かったらどうぞ」
「ありがとう」
 そんなに寒くもないし喉は乾いていないのだけど、わたしが談話室を所在無げにうろうろしているから気遣ってくれたに違いない。勧められるまま暖炉の前に座りカフェ俺を一口飲むと、ミルクと砂糖たっぷりの大好きな味に、ほっとため息が出た。
「で、誰と全然話せないのかな?」
「あのね、マッ……ううん、何でもない」
 マッシュと話したいのだと答えようとして、その言葉をカフェオレと一緒に飲み込んだ。マッシュと一日中一緒にいたエドガーから、何か情報が得られるかもしれない。少し探りを入れてみようと思ったのだ。
「そうか、何でもないのか」
 エドガーは面白そうにわたしを見ている。そんなに面白いことを言った覚えはないのに。
「……あのさ」
「うん?」
「今日さ、エドガーとマッシュって、サウスフィガロにどんな用があったの?」
 エドガーはマッシュと同じ色の目を僅かに丸くして、今日の出来事を話し始めた。


 サウスフィガロは、世界崩壊後に大なり小なり治安が悪くなった他の地域と違い、例外的に治安のいい街だ。
 ケフカの裁きの光は勿論この町も襲うのだけど、町の人はくじけることなく秩序のある暮らしを続けていた。
「みんな頑張っていたよ。だけど一人だけ、そうじゃない奴がいた」
「そうじゃない奴」とは、サウスフィガロのお金持ちだ。食べ物を買い占めているだとか、ケフカに屈するよう町の皆をそそのかしているとか、悪い噂が絶えない人らしい。
残念な事に噂はすべて事実だと分かり、放っておくと町のために良くないと判断したエドガーは、お灸を据えるためサウスフィガロに行くことにした。護衛として名乗りをあげたマッシュ一人を連れて。
「あっけなかったよ。今回の所業と以前の帝国との密通を知っている事、次に町の秩序を乱したらゾゾ辺りに追放する事を言ったら、もう二度とこんなことはしないと謝り続けていた」
「流石エドガー、決める時は決めるね!」
「そうだろう?」
 エドガーはお茶目にウインクした後「まあ、事が早く済んで大分時間が余ったから、私は町にいるフィガロ城の兵士を労いに行くことにした。マッシュはダンカンの奥方の家に行くと言っていたなあ。だから日暮れ前にチョコボ屋の前で落ち合う約束をして別れたよ。そして約束の時間、待っている私の元に、マッシュは少し遅れてやってきた。そこから二人揃って帰って来たんだ」
「へえ」
 別行動だったのなら、エドガーもあの女の子の事は知らないのか。やっぱりマッシュに聞くしかないな。一人頷いていると、エドガーが急に顔を寄せた。
「……
「何?」
 内緒話だろうか。釣られて無防備に顔を近づけたわたしに、エドガーは笑みを含んだ声で「しばらくこのまま話をしようか。君さえ良ければ、さっきのように私を褒めて欲しいんだが」と提案してきた。
「え、どうして?」
「そうしていれば、マッシュがこっちに来るからさ」
 はっと息を飲む。エドガーはにやりと笑い、付け加えた。
「話したいんだろう? マッシュと」
 ばれてる。隠しているつもりだったのに、どうして、そして一体いつ分かったんだろう。超能力のような洞察力に口をぱくぱくさせているわたしが余程おかしいのか、エドガーは「君は本当に面白い顔をするね。その顔も愛嬌があって素敵だよ」だの「君の手の内くらい読めなくて王様は出来ないよ」だの、結構失礼な事を言っては笑っている。流石に悔しくなって言い返そうとした時、上から声が降ってきた。
「お、こっちも随分楽しそうだな」
 驚いた。エドガーの言うとおり、本当にマッシュの方からやって来たのだ!悔しいけれどエドガーは凄い。マッシュは「何話してたんだ?」と、わたしの隣に座り、顔はエドガーに向けた。
「今日の事を話していたんだよ。そうだろう、
 慌てて頷き、エドガーの言葉を思い出して付け加えた。
「そうなの。お金持ちの人にお灸を据えたところまで聞いたんだけど、わたしも見たかったよ。きっとその時のエドガー、格好良かったんだろうなあ」
「お、嬉しいことを言ってくれるね」
 わたしの見え透いたお世辞にエドガーの口元は綻び、マッシュからは逆に笑顔が消えた。
「マッシュもその場にいたんでしょ? エドガー格好良かった?」
「ああ、まあ、な。あいつのうろたえぶりが情けなかったのは良く覚えてるぞ」
「そうなんだ」
 それからマッシュは、そのお金持ちがどれだけ滑稽だったかを話しだした。相槌は一応打ったけど、あまり面識のないお金持ちのうろたえぶりにはあまり興味がない。言葉に詰まったわたしにエドガーが「確かにみっともなかったな。まあ、あの様子ならしばらくあいつも大人しくしているだろうさ」と助け船を出してくれた。ふんふんと頷きながら、わたしは良く知らないお金持ちの話を広げるよりも身近な話題に戻った方がいいだろうと思い、またエドガーに話を戻した。
「お金持ちの人、ちゃんと反省したんだ。上手く行って良かったね。エドガーも大変だったでしょ」
「そう言えばもサウスフィガロに行ったんだって? 何か面白いもんあったか?」
 わたしの声はマッシュの声にかき消され、エドガーには届かなかったようだ。「何だい?」と首を傾げながら、持っていた紅茶を口に運んでいる。もう一回同じことを言った方がいいんだろうか。考えているとカップから静かに口を離したエドガーが、「私は先に部屋に帰るよ。そろそろ仕事に戻ろうかな。」と立ち上がった。
「あ、カフェオレありがとう。カップ、後でわたしのと一緒に洗うから、流し台に置いててくれる?」
「分かった。じゃあお願いするよ」
 去り際に振り向いたエドガーと目があった。私の言った通りだろうと言わんばかりの得意そうな笑顔を浮かべているので、感謝と尊敬、降参の混じった曖昧な笑顔を返しておいた。
 そしてまた、マッシュの方に振り返ると。
「……え、あ、何」
 マッシュがまじまじとわたしを見ていた。穴があくほど見るとはこのことだ。嫌ではないけど恥ずかしくなって「どうしたの。わたしの顔、何かついてる?」と見つめ返すと、「いや……」と呟いた後、ようやく視線を外してくれた。ぎこちない態度が気になるけど、折角エドガーが作ってくれたチャンスを逃してはいけない。
「さっきの話の続きだけど、サウスフィガロでは自分で使う細々した物とか、皆で食べる用のお菓子を買ったよ」
「ああ、さっき夕食前に勧めてきたお菓子のことか?」
「うん。買い物の後は町を散歩して、帰ってきたんだけど」
 ようやく聞きたかったことが聞ける。緊張してからからになる喉をカフェオレで潤し、深く深呼吸を繰り返した後、本題に入った。
「マッシュ、今日町で何してたの?」
 マッシュは青い目を僅かに丸くして、今日の出来事を話し始めた。さっきのエドガーと同じしぐさだ。さすが双子だ…と思いながら、わたしは話に耳を傾けた。


 マッシュは師匠の家を訪ねていた。
 師匠のダンカンは別の場所で鍛錬に励んでおり、今現在、家には師匠の奥さんが一人で暮らしている。独り暮らしで大変ではないかと気になっていたので、いい機会にと様子を見に来たのだ。
 扉をノックすると、出てきたのは奥さんではなく見知らぬ若い女性だ。家を間違えたと慌てたマッシュが謝ると、女性は「……マッシュさんですよね?」と尋ねてくる。初めて会うのになぜ自分の名前を知っているのかときょとんとした時、「おやマッシュ、よく来たね」と部屋の奥から懐かしい声がした。女性が身を引いた後ろには奥さんが笑顔で立っている。家を間違えたわけではないようだ。予想もしていなかった若い女性の登場に動揺しながら、マッシュは促されるまま中に入った。
若い女性は二人にお茶を出した後、離れた台所の椅子に座って縫物をしている。カップや裁縫箱を出す動作が自然で、この家に馴染んでいるのがよく分かる。メイドを雇ったのかと思ったが、二人の会話を聞いているとそうでもないらしい。それに、初めて会うのにどうして自分の名前を知っているのかも謎だ。
 思い切って奥さんに尋ねると、「もしかしてあの子のこと、まだ思い出せないのかい?」と呆れたようにため息をつかれた。
「ちょっと、こっちに来てくれないかい」
 奥さんは女性を呼び、呼ばれた女性は素直にやってきた。
「この娘はあんたもよく知っている子だよ」
 言われて初めて女性をまじまじと見た。亜麻色の髪に同じく亜麻色の瞳。ややつり上がった目が勝気な印象で、それが記憶を呼び起こす手助けをした。
「もしかして、裏の武器屋の娘さん……か?」
「はい! お久しぶりです!」
 女性の顔が明るくなった。はきはきした口調に、そうだ当時もこんな話し方だった、気が強くて苦手だったっけ、でもしっかり者で評判だったなあと、彼女についての記憶がぽんぽん蘇っていく。
「でも、どうしてここに?」
「独りだと何かと不便でね。この子に話したら暇な時に来てくれるようになったのさ。家事を手伝ってくれたり話し相手になってくれたり、随分助かってるよ」
 彼女を見かけたのは兄と再会する数日前、彼女に絡んでいた兄弟子を追い払った時が最後で、今からほんの2、3年前のことだ。それなのに。
「なんか印象が変わったなあ」
「印象が変わったって、どういう風にですか?」
「綺麗になったよな。全然気付かなかったよ」
「えっ」
 女性が目を見開いた。マッシュも自身の言葉の大胆さに気づき、一気に顔に血が上る。奥さんは「あんたがそんなことを言うなんてねえ」と可笑しそうにしていたが、時計に目をやり「そろそろ帰る時間じゃないかい?」と女性に声をかけた。女性は慌てて立ち上がり「また明日来ます」と挨拶してこちらを振り向いた。その時にぱちんと視線があった。
さっきの発言で変な印象を与えてしまったかと心配で、マッシュは女性を見ていた。自分はたまにしか来ないからいいが、この家には変な男が来るからと思われて奥さんが避けられたら申し訳ない。
「あの、さっきは変なことを言って、すまなかった」
「え、へ、変なこと?」
「いやだからその、き、綺麗になったとか……あまり気にしないで、これからも奥さんの話し相手になって欲しいんだが」
 女性はようやくマッシュの言いたい事に気付き、頬を赤らめながら笑った。
「もちろん、また来ます。それに……私、嬉しかったです」
「へ?」
「マッシュさんに綺麗になったって言ってもらえて」
 何だか分からないが、嬉しかったのなら良かった。奥さんの所にもまた来てくれるらしい。 「マッシュさんは明日もここに来るんですか?」
「いや、夕方にはここを出る」
「そうですか……」
 急に女性の声に力が無くなった。
 マッシュは女性に免疫がない。だから女心というものがよくわからない。それでも彼女が落ち込んだ理由が自分の発言にあることは理解できた。だからとっさに「でも、奥さんの様子を見に時々来るよ」と付け加えた。どうやらこれで正解だったらしい。女性が「本当ですか!?」と顔を輝かせたのだから。
 顔と同じくらい明るい声で弾むように「また来ます。マッシュさん、時間があったらお店にも来て下さいね!」と言い残し、ぺこりと頭を下げて扉の向こうに消えた。向こうに広がる空は町に来た時よりもさらに赤黒くなっている。兄と約束した待ち合わせの時間が近づいていた。
「マッシュ、あんたも帰る時間じゃないかい」
「あ、はい。お茶、ご馳走様でした」
 空のカップを片付けようとすると、奥さんはそれを手で制した。
「こっちはいいからあの子を家まで送ってやりな。それくらいの時間はあるだろ」


 奥さんに挨拶して外に出ると、少し前を彼女が歩いている。やけに歩調がゆっくりだったからすぐに追いついて声をかけた。弾かれたように振り向いて、家まで送ろうかと言うと、さっきのように嬉しそうにほほ笑んだ。
 だが奥さんに言われたからそうしたまでのことで、数年ぶりに会った女性、しかもそう親しくない女性と話が弾むわけがない。他の男なら弾むのだろうが、顔を知っている程度の女性と楽しく話すなど、マッシュにとって高すぎる障壁だ。奥さんを気遣ってくれるお礼とお互いに当たり障りのない近況を話してしまうとすぐに沈黙が訪れた。幸い武器屋は歩いて数分の場所にあるので、気まずい思いをする時間も数分で済んだ。
「送って頂いて、ありがとうございました」
「いや……じゃあ、俺はこの辺で……」
 言われたことはちゃんとした。兄との待ち合わせの時間もある。義務を果たし、どこかほっとした気分で背を向けて歩き出すと、「マッシュさん!」と叫ぶ声が追いかけてきた。続いて腕を掴まれる感触も。
「な、何だ!?」
「私、あの時のこと謝ろうと思って」
「あの時!?」
「前にバルガスさんに絡まれてた時です。マッシュさん助けてくれたのに、怒鳴ってしまってごめんなさい」
「へ?」
「助けられた時、気が緩んで泣きそうになったんです。でもそれに気付かれたくなくて、ついあんなこと…本当にごめんなさい」
 改めて当時の事を思い出す。兄弟子に絡まれている時もそれを助けた時も、彼女はずっと俯いたままだった。心配して顔を覗きこもうとしたら「別に頼んだ訳じゃないのに、勝手な事しないでよ!」といきなり怒鳴られ、反射的に謝って逃げ帰り、余計な事をしたという後悔や彼女への苦手意識など、渦巻く負の感情に悶々とした覚えがある。正直今まで、ずっと彼女に嫌われているのだと思っていた。けれどそうではなかったのだ。
「私本当は嬉しかったんです。助けてもらったこと」
「そっか、あの時は余計な事をしちまったかと思って、ちょっと気にしてたんだ」
「マッシュさん……」
「そうじゃないなら良かったよ」
 にかっと笑いかけると、彼女は泣きそうな顔になった。あの時もこんな顔をしていたのだろう。他人に泣き顔を見られるなどマッシュとて避けられるなら避けたいから、つい怒鳴ってしまった気持ちは分かる。
 女性は少し落ち着きを取り戻して、「マッシュさんは、世界を平和にする旅が終わったらどうするんですか?」と尋ねてきた。
「俺? そうだなあ……しばらくは世界のあちこちを旅して、困ってる人の手助けをしたり、魔物や盗賊退治をしようかと。世界が落ち着いたらどこかに定住するのもいいかもな」
「私……待ってます」
「え?」
「マッシュさんが帰って来るの、待ってますから」
 マッシュはしばし沈黙し、言葉の意味を考えた。けれど分からなかった。分からなければ相手に聞くまでだ。
「なんで俺を待つんだ?」
 女性は目をぱちぱちさせた。予想外のことを言われ、戸惑っているように見えた。
「え……分かりません?」
「分からん」
 ぽかんとして、その後彼女は笑った。照れているような困っているような曖昧な笑顔だった。そんな顔をされても分からないものは分からない。どうしたものかと空を見上げると、月も星もない暗闇だけが広がっていた。
「あ、やっべえ!」
「へ? へ?」
「チョコボ屋の前で兄貴と待ち合わせしてるんだ! もう完全に遅刻だ、もう行くから、じゃあな!」
「え、あの、マッシュさん!」
「あ、前に怒鳴った事は気にすんなよ! 俺も気にしてねえから!」


「兄貴は無事金持ちにお灸を据えたし、おかみさんの無事も確認したし、それにあの子と和解出来たし、色々充実した一日だったよ。あの時はなんで怒鳴られたのか分からねえから、助けなきゃよかったなんて後悔もしたからさ」
 マッシュは笑い、「まあ、そんな一日だった」と締めくくった。
 わたしは笑えなかった。正確に言うとあの女の子――武器屋の娘さんとマッシュの会話辺りから笑えなくなった。
 武器屋の娘さんがしっかり者で綺麗な人だということ、昔からマッシュを知っていること、マッシュに家まで送ってもらったこと、二人しか知らない会話のやり取りをしたこと、マッシュが楽しそうに話すことの全てが苛々する。
 どうしてか分からないけど、胸がもやもやして訳もない不安が押し寄せてきて、おまけにこんなに能天気にそのことを話すマッシュの笑顔が憎らしい。だけど変に思われたくなくて、我慢して無理矢理笑顔を浮かべて聞いていた。
「俺の一日はそんな感じだよ。でも、なんでそんな事聞くんだ?」
「あ、あの、マッシュが綺麗な女の人と歩いてるの見かけたから。もしかして、恋人かなーと思って」
「恋人ぉ? そんな訳ないだろ!」
 マッシュが素っ頓狂な声を上げ、大声で笑った。
 大好きな筈の笑い声が、今日はやけに苛々する。わたしはあの場面を見てから今まで悩んでいたというのに、当のマッシュときたらこれだ。苛立ちを笑顔でくるんで、わたしはマッシュに言い返した。
「凄くいい雰囲気だったから声をかけない方がいいと思って黙って見てたけど、はたから見たらそんな感じだったよ」
「いや、俺とあの子は別にそんなんじゃ……大体久しぶりに会った相手にそこまで親密な感情も持たないだろ」
「でもあの子はマッシュのこと好きだよ。見てれば大体分かるもん」
「俺には分かんなかったけどな」
「それはマッシュが鈍感だからだよ。ねえ、あの子に『付き合おう』って言ってみたら? きっと『はい』って言ってくれるよ」
 マッシュの顔色が変わった。
 言い過ぎたかもしれない。苛々していたとはいえ、しつこく食い下がり過ぎた。マッシュは優しいけれど、怒ると怖い。
 怒鳴られるのに備え、わたしは身を縮めた。けれど意に反して、マッシュは文句を言ったり、ましてや怒鳴ることもなかった。ただとても静かに、険のある声で「そうだな」とため息をついただけだった。
がそんなに言うんなら、明日あの子の所に行くとするか」
「えっ」
「また来て下さいね、って言われてたし、飛空挺は数日間動かないらしいし、あの子、ちょっと気は強いけどいい子だし、師匠の奥さんも気に入ってるし、が言うには俺の事も好きらしいし」
「えっ、えっ」
の言うとおり、あの子と恋人になってもいいかもな。参考になったよ」
 思わず自分の耳を疑う。冗談のつもり、と言うには性質が悪かったかもしれないけれど、決して本気で言ったんじゃないのに!そんなわたしの驚きを余所に、マッシュは勢いよく立ち上がった。
「先に寝る」
「えっ、えっ、マッシュちょっと待って!」
 大きな背中はわたしの声に少しも反応せず遠くなり、談話室の扉の向こうに消える。追いかけようとしてある事に気付き、諦めた。
 マッシュはいつもの「おやすみ」も言ってくれなかった。それはわたしにとって、完全な拒絶のように思えたのだ。


「どうしよう……」
 マッシュを完全に怒らせてしまった。それだけでなく、他の女の人との交際まで勧めてしまった。このままだとマッシュはあの女の子と恋人になってしまう。下手したらそのまま結婚してしまうかもしれない。
 今更ながら自分のしでかした事を後悔したけれど、もう遅い。
 一体どうすれば許して貰えるんだろう、マッシュをあの子に取られないで済むんだろう。
 わたしはその場に立ち尽くしたまま、そのことだけをひたすら考えていた。


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