謝ろう。
談笑の時間が終わり談話室に人気が無くなった頃、ようやく当たり前のことに考えが至った。
元々わたしが食い下がらなければ起こらなかった事態だ。気まずいし文句を言われるかもしれないけれど、自分が悪いのだから我慢だ。自分を鼓舞しながらマッシュの部屋に向かい、扉をノックしようとして止めた。謝った後に許してもらえる保障など、よく考えればどこにもない。
「というわけで、マッシュ怒って帰っちゃったの」
「それは困ったね」
結果、怖気づいたわたしは、またエドガーに相談に乗ってもらっていた。最初は「女性が夜に男の部屋に来るのは良くないよ」と部屋に入れてくれなかったのだけど、どうしてもと懇願して中に入れてもらい、一部始終を説明したところだ。
「あれから大分時間がたったんだけど、マッシュまだ怒ってるかなあ。怒ってるよね。どう思う?」
「多分、怒っているだろうな」
「やっぱり……もう、『付き合っちゃえば?』なんて言わなきゃ良かった。でもどうしても腹が立ってしまって」
エドガーが小さく笑った。
「きっと、緑眼の魔物に魅入られてしまったせいだね」
「へ?緑の眼?」
エドガーは綺麗な碧眼で、双子の弟であるマッシュも同じ色だ。わたしは黒目だし、あの女の子は亜麻色の瞳。この話に関係する誰も彼も、緑色の瞳など持っていない。
「……どういう意味?」
「そのままの意味さ」
「へえ」
あの苛々は魔物――緑の眼をしているらしい――の仕業だったんだ。そう言われるとコントロールできなかった自分の心にも納得がいく。あんな平和な町に魔物が潜んでいたなんて全然気付かなかったが、魔物のせいなら仕方ない。
「エドガーはやっぱり物知りだね。わたし、そんな魔物がいるなんて知らなかった」
「そうかい……って、え?」
「物知りついでにその魔物、どうやって倒すのか知らない? 弱点とか」
「じゃ、弱点?」
「ストラゴスさんなら何か知ってるかな。ちょっと聞いてみるね。ありがとう」
「待て、待て待て」
立ち去ろうとしたわたしの服の裾を、エドガーがぐいと掴んで引き止めた。彼らしくもない雑な引き止め方だ。
「回りくどい言い方をしてしまってすまない。詳しく説明するから、ちょっと待ちなさい」
謝られているのに呆れられている気がする。けれどむやみに腹を立てても碌な事がないと学習したばかりのわたしは、大人しくエドガーの言葉を待った。
「君はマッシュが女性と一緒にいたのを見て、嫌な気持ちになった。それは間違いないね」
「うん」
「素敵な子だったから、マッシュを取られてしまうと思った」
「うん」
凛とした雰囲気の綺麗な子だった。はきはきしてて賢そうだった。全部わたしにはないものだ。あの子は亜麻色の明るい髪、マッシュは金髪だから、あの子と彼が二人並んでいると何だか眩しくて、自然に恋人同士に見えてしまった。
「で、不安になった君は、マッシュを挑発してしまった。それで怒らせた、と」
「うん」
「つまり君は、マッシュとその女性に嫉妬しているんだよ。緑眼の魔物に魅入られると言うのは、それを例えた言葉さ」
「へえ。って、嫉妬? わたし、嫉妬してるの?」
エドガーは彼にしては珍しく、きょとんとした表情をした。そんな風に物言いたげな顔で見つめられても困る。尋ねているのはわたしなのに。
「ねえ、わたし嫉妬してるの? 何で嫉妬するの?」
「嫉妬しているのだと思うよ。その理由は、自分で考えなさい」
苛々する。全く以て苛々する。
全てはのせいだ。が人の神経を逆撫でする事ばかり言うからだ。
人気のないサウスフィガロの町を散歩しながら、俺はへの不満を募らせていた。
あの子とは何でもないと言ったのに、しつこく食い下がられても否定していたのに、あの子との交際を薦めるなんて無神経もいい所だ。しかも俺の前で、これ見よがしに兄貴との仲を見せつけるような真似をするなんて。
行き場のない怒りが歩みを速めた。散歩の筈が小走りに変わり、やがて疾走、と言ってもいいような速さになる。やけくそで町中を走り回り、いつの間にか俺は町の中心にある公園に着いていた。
早朝の公園は静かで緑に囲まれ、清々しい空気が流れている。場違いなくらい不機嫌な顔をしているであろう俺を、犬の散歩をしていた老人が恐ろしそうに眺め、そそくさと去っていく。「腹が減って気が立っとるんじゃろうか…」と呟いたのが聞こえたが、残念ながらそうではない。
体を動かすことが気分転換になったかと言えばそうでもなく、むしろ燻っていた感情に火がついてしまった気がする。けれど動き回るには少々疲れてしまい、近くにあったベンチに座り「馬鹿野郎」とか「分からず屋」とか呟きながら、背後に感じる気配を牽制していた。
散歩の途中いつの間にか俺をつけていた、様子を伺うようなおどおどした気配。以外に誰がいる。
鈍感ではあるが根はいい子だから、大方謝るために後をつけて来たのだろう。そういう素直さはの長所だ。それに恐らく彼女は俺の怒りの理由を分かっていないのだから、傍から見れば怒っている俺の方が滑稽なのだろう。けれど、今だけはどうしても許す気になれない。
とにかく気持ちが落ち着くのを待たないと。今が話しかけてきたら、また冷たい態度を取ってしまう。それで俺はひたすら気配を無視した。時々わざとらしく大きなため息をついたり舌打ちをしたりして、不機嫌な態度を崩さなかった。それでも背後の気配はなかなか立ち去ろうとしない。
今日は朝から肌寒いのに、俺が許すまで待ち続けるのだろうか。
もしかしたら、怒っている俺に怯えて、泣きそうな顔で隠れているのだろうか。
ああ、畜生。心配になって無視するどころじゃない。
「おい」
背後にある植木の茂みを睨みつけ、険のある声で呼びかけた。息を飲む気配がこちらまで伝わってくる。
「さっきからこそこそ後をつけてきやがって。さっさと出てこい」
気配はためらった後、出てくる事にしたようだ。揺れた茂みから女物の靴がひょい、と出てきた。
「あの……すみませんでした。見かけたから声を掛けようとしたんだけど、凄く急いでるから、何があったんだろうと思って」
「!」
俺はまだまだ修行が足りない。
だと思いこんでいた気配は、昨日の武器屋の娘さんだったのだ。
マッシュに謝ろう。そう思って早起きしたのに、マッシュはもう飛空挺にいなかった。
仲間内で一番早起きのカイエンさん曰く、「やけに急いでサウスフィガロに向かったでござる」だそうだ。後悔で頭の中が真っ白になった。
「こんな事ならマッシュの部屋に忍び込んででも謝れば良かった。真夜中だからって遠慮するんじゃなかった……」
「いや、それは遠慮しておいて懸命だったと思うよ。色々と」
後悔のあまり馬鹿な事を口走るわたしをエドガーがやんわりと諌め、発破を掛ける。
「君もサウスフィガロに行った方が良くないかい? これが最後のチャンスだと思うけどね」
確かにそうだ。本当にエドガーは頼りになる。わたしは力強く頷き、朝ご飯も食べずに飛空挺を飛び出した。
昨日帰ってきた時のように全速力でサウスフィガロに到着したわたしは、さっそくマッシュを探して町中を歩いた。早朝で人通りはまばらだから、体格のいいマッシュはとても探しやすそうだ。いや、探しやすいしすぐ見つかるはずだ。そう信じたい。
信じる者は救われるとはよく言ったものだ。程なくして公園にたどり着いたわたしは、見慣れた巨体が大木の下に立っているのを見つけて駆けだした。
「マッ……」
掛けようとした声を、ぐっと飲み込んだ。マッシュの前にあの女の子が立っている。
どうしよう、どうしよう、マッシュが本当にあの子のことを好きになったら。
逃げ帰りたくなったけれど、それでも二人がどんなやり取りをしているのか気になる。絶望的な好奇心はわたしを足止めした。昨日のように身を潜め気配を殺しつつ、じりじりと二人に近付き、そのやり取りに耳を澄ませた。
「本当にすみません。こそこそ様子を伺ったりして」
「いや、俺もきつい言い方をしてすまなかった。その……知り合いと間違えてしまって」
「……」
「……」
沈黙が続いている。
重苦しいというよりは、お互いの様子を探り合うような沈黙だった。昨日わたしが見た楽しげな雰囲気は何だったのだろう。本当にマッシュの言うとおり、何でもない関係だったのか。胸をなで下ろした時、「あの」と、緊張した女の子の声が耳に飛び込んできた。
「私、実はもう一度マッシュさんとお話ししたくて、それでついて来たんです」
「え、お、俺と?」
「マッシュさん気付いて無かったみたいだから、はっきり言います。私、マッシュさんの事、ずっと好きだったんです!」
「えっ」
「町で見かけるたびに、修行頑張ってるんだな、素敵だなって思ってました。いつか話したいなって思ってるうちに、ダンカンさんが亡くなったって噂が立って、その後急に姿を見かけなくなったから気になってました」
ほらわたしの言った通りじゃないの!マッシュの鈍感!
ぐっと拳を握りしめ、いや今はそんな場合じゃないと再び耳に全神経を集中する。肝心なのは次、マッシュの返事だ。
マッシュは沈黙していた。どう答えようか考えあぐねているのか、それとも単に驚いているのか、気配からは察する事が出来ない。
そっと茂みから身を乗り出した時、いきなり背後から「ちょっとあんた」としわがれた声がした。
「ひゃっ…な、何でしょう」
叫びそうになったのをどうにか堪えて振り向くと、犬を連れたおじいさんが心配そうな顔で立っていた。
「そんなところで座りこんで、どっか具合でも悪いのか?」
「い、いえ、大丈夫ですんで」
「それにしては顔が青いぞ。近くに医者がいるから、ちょいと呼んで来ようか?」
「いえいえ、本当にお構いなく」
お気遣いはありがたいけれどそれどころではない。必死に辞退していると、お腹がぐるぐると恥ずかしい音を立てた。そう言えば朝ご飯を食べずに出てきてしまったのだった。全く、体は正直だ。
おじいさんはわたしのお腹の音を聞いて、事情を察してくれた。自分のバッグをまさぐり、「最近の若者は腹ばかり空かしとるんじゃのう。こんなもんしか無いが」とチョコレートを二つ、わたしの手に握らせてくれる。
「あ、ありがとうございます……」
おじいさんは「もう少ししたら近くの市場が開く。屋台も出るからそこで何か食え。腹が減ると碌な事にならんぞ」と言い残し、鳴き声一つ立てないお利口な犬と一緒に公園を出ていった。
とりあえず頂いたばかりのチョコレートを頬張った。お腹が空いていたのもあって凄く甘くて美味しい。って、まったりしている場合じゃない!
慌ててさっきの場所を見た。そんなに長い時間ではなかったのに、もう二人とも居なくなっている。わたしが目を離している間に何があったんだろう。どんな話をして、どんな結果になったの。口をもぐもぐさせながら茂みから飛び出し、辺りを見回した。
女の子の姿はもうどこにもない。そして。
「……、何してんだ?」
マッシュはまだ、公園にいた。
昨日の女の子に、好きだと言われた。
生まれて初めての告白を受けて、俺は相当戸惑った。城にいた頃、同じ年頃の侍女やメイドの子は大抵兄貴の方に好意を寄せていたようだし、城を出てからはそもそも同じ年頃の女の子との接点が殆ど無かった。故にこういう場合、どうしたらいいのか分からなかった。
微動だにせず何も言わない俺を、女の子はじっと見ていた。怒っているような表情は強張ったまま動かず、熱を出しているかのように真っ赤だった。やっと、どうすればいいのか理解した。この子は持てる勇気を振り絞って、気持ちを打ち明けたのだ。それならば俺がすべきことは、同じように真剣に、誠実に向き合うべきだ。
「……マッシュさん、あの」
「俺、生まれて初めてだ。好きだなんて言われたのは」
「嘘。だってマッシュさん、凄く素敵なのに」
「本当だよ。驚いたけど、なんか嬉しいもんだな」
本当だ。彼女の好意も気付けないくらい鈍感な俺なのに、そんな風に思ってくれていたなんて。未熟ながらもひたすら修行していた姿を見ていてくれていたなんて。じわじわと胸が温かくなる。
だからこそ、断るのが辛い。
「……今、一緒に旅をしている仲間にさ、君と同い年くらいの女の子がいるんだ。で、今その子と喧嘩中……いや、俺が勝手に怒っているだけなんだが」
「へえ」
「その子が困った子なんだよ。いや悪い子じゃないんだけど、子どもっぽいし抜けてるし、黙っていれば可愛い子なんだけど、全然黙らないから困ってる」
「そうなんですか」
「いい所もいっぱいあるんだよ。素直な子だし頑張り屋だし優しいし、小さい子に慕われてるし。なのに我儘言ったり意地張ったり、大体いつも挙動不審なんだよな。とにかくもう、本当にどうしようもない子でさ」
「それは……その、大変ですね」
「けど、俺はその子がいい」
「え……」
「俺みたいなのを好きになってくれて嬉しいのは本当だ。応えたいと思ったけど、でも」
女の子は瞬きもせずに俺を見つめていたが、やがて張り詰めた表情が歪み、ぎこちない笑顔に変わった。
「好きなんですね、その子の事」
「ああ」
「分かりました。ちゃんと応えてくれて、ありがとうございます」
「俺の方こそ、嬉しかった。好きになってくれてありがとう」
女の子は頭を下げた。大きな瞳から涙が零れそうになる直前で、俺に背中を向け、足早に公園を去って行く。
きっと泣きながら歩いているのだろう。慰めたいが、俺が慰めるべきじゃない。感謝といたたまれなさを同時に感じながら背中を見送っていると、近くの茂みが揺れた。
「……、何してんだ?」
さっきまで話題の中にいた女の子が、ひょっこり出てきた。
早く謝らないと。そのために来たんだから。
マッシュ、あの子の事しつこく聞いてごめん、とにかくわたしが全部悪いんだけど、許して欲しい。それだけは伝えないと。チョコレートを食べ終わり、わたしはようやく口を開いた。けれど出てきた声は自分でも驚くほど弱々しかった。
「……マッシュ」
「ん?」
「あの子……」
「!?」
「あの子の事……」
「え、や、やっぱり見てたのか!?」
「あの子の事、好きなの?」
「え」
マッシュがきょとんとした。しきりに首を傾げ、「え、見てないのか?」と尋ねてくる。見た感じ、いつもの穏やかな(ただし少し動揺している)マッシュに戻っている。
何故かそれだけで、胸がいっぱいになってしまった。
「さっき、見ちゃったの。あの女の子が、マッシュに好きだって言ってる所」
「え?」
「もしかしたら二人が付き合うのかなって想像するのも嫌だった。別にあの子が悪いわけじゃないけど、それでも」
「いやだから、俺は……え、その後は見てないのか?」
「なんか、マッシュが取られる気がして、凄く嫌だった。あの子じゃなくても、」
謝るつもりだったのに、全然謝っていない。その事に気づいてはいた。けれど止められない。
「やだよう……マッシュが他の子と仲良くしたり付き合ったりするの、我慢できないくらい嫌」
「ちょ、、落ち着けって」
昨日のあの女の子とマッシュは、とても楽しそうに会話していた。今日は昨日とは様子が違ったけど、大人の男女の落ち着いた空気が流れていたように思う。それなのにわたしは、子供みたいに駄々をこねて泣いて、不満をぶつけることしかできない。ああ、悔しい、妬ましい。どうしてあの子みたいに振舞えないの。
「エドガーに教えて貰ったの、わたし嫉妬してるんだって。嫉妬するの苦しい、こんな思いしたくないよ、だからマッシュ、」
人気がないのをいい事に、わたしは半泣きで訴えた。謝るどころか不満をぶつけた上に泣き落としなんて最悪だ。
「あ、あの子の、所に、い、行かないでよう……」
「別に、行かないぞ」
「えっ」
あっさりした声音に涙が引っ込んだ。恐る恐る顔を上げると、にこにこしているマッシュと目が合った。
「好きだって言われて、まあ嬉しかったけど断ったよ。だから、俺と彼女は何でもない」
「そ、そうなの?」
「まあとにかく、俺はどこにも行かないから、そんな顔するな。な?」
子どもをあやすような優しい口調。あの子との差に凹みかけたけど、彼を怒らせた自分が凹む資格なんか無い。気持ちを奮い立たせながら、わたしはおどおどと本題に入った。
「うん。……あの、マッシュ、昨日はごめんね」
「昨日?」
「昨夜、あの子と付き合えばいいのにってしつこく言ったこと。嫌な思いさせてしまってごめんなさい」
ああ、とマッシュは思い出したような声を出して、「まあ、昨日は腹が立ったけど。今は怒ってねえよ」とさらりと言ってくれた。許してくれて良かった、これからはいくら腹が立っていても人の嫌がる事はしないようにしよう。わたしは深く肝に銘じた。
そんなやり取りをしているうちに太陽は高く昇り、公園は人の姿が増えてきた。どちらともなく飛空挺に帰ろうという話になり、揃って公園を出た時、不意にマッシュが尋ねてきた。
「そういや、昨夜、兄貴と何話してたんだ? なんか盛り上がってただろ」
「え?ああ、エドガーがサウスフィガロのお金持ちにお灸を据えてきたって話の事?」
「その他にも話してなかったか?」
「その他……」
その他なんて、エドガーがアドバイスしてくれたことくらいだ。些細すぎて敢えて話すような事なのか迷ったけれど、せっかく戻ったマッシュとの仲を壊したくない。正直に打ち明けた。
「あの、ね。昨夜は、マッシュと昨日の女の子がどういう関係なのか知りたくて、何度も聞こうとしてたんだけど」
「そうだったのか?」
「うん。でもなかなか話しかけるタイミングが掴めなかったの。困ってたらエドガーが話しかけてきて『どうしたの?』って言ってくれて、まずは探りを入れようと思ってエドガーに今日何してたのか聞いたの。そこからあのお金持ちの話になって、そしたらマッシュが話しかけてきたってわけ」
「ああ……」
「そうそうエドガーって凄いんだよ! すぐにわたしがマッシュと話したがってる事見抜いちゃったし、『もう少し私を褒めてくれればマッシュの方から話しかけてくるよ』って言うからその通りにしたら、マッシュが来てくれたし」
本当にエドガーは凄かった。流石双子のお兄さんだ。それにわたし達の事を、わたし達以上に分かっているみたいだ。今朝だってエドガーの言うとおりにすぐマッシュを追いかけたから、こうして仲直り出来た。
「あー……兄貴は何もかも、お見通しだったんだな……」
「どしたの、マッシュ」
「いや、どうもしない。どうもしないけど」
苦笑しながら、マッシュは鼻の頭を掻いた。
「昨日、俺もと兄貴に嫉妬してた。楽しそうに話してたから、なんか入りにくくて。もしかして好き合ってるのかな、とか勝手に考えてた」
驚いた。わたしが感じていたあのもやもやを、マッシュも感じていたのだ。
わたしはもしかしたら、狡いのかもしれない。マッシュとあの子の仲良さそうな様子に嫉妬してあれだけ苛立ってたくせに、わたしにマッシュが嫉妬するのが、嬉しいなんて。
「やだなあ、別にわたしとエドガーはそんな、特別な仲じゃないよ」
「なら良かった。俺とあの子もそんな特別な仲じゃないからな」
「うん」
昨日の出来事からまだ、一日も経っていない。それなのにわたし達の間に穏やかな時間が流れているのも、こうして二人きりで会話するのも、随分久しぶりのような気がする。それはとても幸せな事だ。だけど。
「……」
マッシュは、あの子は特別な存在でもないと言う。じゃあ、わたしはどうなんだろう。
まあいつも一緒にいるし、あの子より少しは特別、なんだろうか。でもそれだと、他の仲間も皆同じように特別、ということになる。なんかそれは嫌だ。
ちらりとマッシュを見た。盗み見たつもりだったのに、ばっちり目が合った。照れ臭くなって誤魔化すように笑うと、同じような笑顔を返されて、胸の奥がふわりと浮き立つような心地がした。気がつけば、昨日までの苛々はすっかり消えていた。こんな時間がずっと続けばいいのに、と思った瞬間、心の中でパチン、と何かが弾けた気がした。
「あ……」
「ん、どうかしたか?」
気遣うような声音に首を横に振り、何でもないと意思表示する。けれど内心は動揺していると悟られないように必死だった。たった今発見した事実は、それくらいわたしをうろたえさせた。
『嫉妬しているのだと思うよ。その理由は、自分で考えなさい』
突然昨日のエドガーの言葉の意味を、ようやく理解したのだ。
「やっぱり変だぞ、。急に黙りこくって、どうしたんだ」
わたしの様子を訝しんだマッシュが、顔を覗きこむ。
「あの……その……」
「?」
「どうも、しない、けど」
やばい。今まで毎日のように会話していたのに、何故かそれが出来ない。普通に笑うことは勿論、誤魔化すように笑うことも出来ない。けれど一番大変なのは、顔が熱くなっていくのを止められないことだ。
今までこの人とどんな話をしてたっけ。この人の前でどんな風に笑ってたっけ。普通に話し普通に笑っていたのに、その普通がずっと遠くに行ってしまった。どうしよう、すごく緊張する。
しどろもどろなわたしを心配するような目で見ていたマッシュは、ふと顔を上げて、大通りの方を見遣った。釣られてわたしもそちらを見ると、遠目にも規模が大きいと分かる市場が開かれていた。
「なんか、あっちからいい匂いがするな」
「……そう言えば、さっきチョコをくれたおじいさんが、あの市場で屋台が出るって言ってた」
「へえ、ちょっと寄ってみるか。、朝飯食ったか?」
「食べてない。でも、わたしお金持ってきてないから、マッシュだけ食べなよ」
「目の前で俺だけ食うのも悪いだろ、奢るよ」
「あ、ありがとう」
マッシュもお腹が空いていたのだろうか、それ以上わたしの様子を詮索する事なく、軽やかな足取りで市場へと歩いて行く。少し後ろから続いたわたしは、胸を弾ませつつ、頭を痛めていた。
確かに嫉妬の苦しさからは解放された。苛々からも解放された。でも今度はそれ以上に強い、別の気持ちを知ってしまった。
今でさえとうに持て余している気持ちを抱えて、マッシュと普通に接していけるのだろうか。
悩んでいると、マッシュが「、あの屋台にしようか」と、曇りのない笑顔を向けた。嬉しくなって締まりのない笑顔で頷き、ああ、こんなんじゃ駄目だ、と頭を横に何度も振って、自分を戒める。
わたしの新しい戦いは、今始まったばかりだ。
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