夜になっても、台風は町に留まったままだった。
風はびゅうびゅう吹き荒れ、雨粒は激しく窓ガラスを揺らす。外の音をさっきまで正直うるさく思っていたのだが、それらの音を遠くに感じた。
「二人で一緒に寝ればいいじゃない」
が震える声でそう言ったからだ。逃がすまいとするかのように、服の裾をしっかり掴みながら。
俺は一歩も動けずにいた。色んな感情に体を縛られたみたいに、身動きがとれなかった。
ついに想いを遂げるチャンスが舞い込んできた歓喜と戸惑い、彼女が俺とそういうことをしてもいいと思ったことに対する興奮と満足感。この精神状態は、混乱の魔法を掛けられた時のそれに似ている。まずは落ち着く事が先決だと思い、深く深呼吸をした。だが少し頭が冷えると『もしかすると、これは深い意味のある言葉ではないかもしれない』と思えてきた。自分だけがベッドで寝るのを申し訳ないと思って「一緒に寝よう」と言ったのかもしれない。野宿でテントの数が足りなくて、男女混じって雑魚寝するのと同じ感覚で言ったのかもしれない。怒っているのは、ずっと一緒に旅をしていたのに今更遠慮する事に対してかもしれない。声が震えているのもきっと、怒りのせいだ。
今日の昼まで、を手に入れたのだと確信していた。それなのにいざチャンスがやってくると、どうしてだか、俺は急に臆病になった。
「全く。俺だから大丈夫だけどよ。他の男の前でそんなこと言ってみろ、すぐ襲われちまうぞ」
わざと何でもない風に言ってのけ、さりげなく頭に手を置いた。「髪、大分乾いてる。風呂に入って寝れば風邪ひかねえな」と保護者のように振舞えば、固まって様子を伺っていたが、揺れる瞳を見開いた。それを見なかった事にして「飯がまだ途中だったな。食っちまおう」と素早くテーブルに戻ろうとした。だがするりと腰に回された細い腕が、それを邪魔した。
「……マッシュなら襲っていいよ」
背中に感じる温もりと、掠れた声。
これで彼女の意思を察する事が出来ないほど、俺は馬鹿でも鈍感でも無かった。
そこから先の時間は、ずっと夢の中にいるような心地がしていた。
「とりあえずご飯は食べようね」と、そそくさとテーブルに戻る後ろ姿をぼんやりと追いかけ、ぼんやりと椅子に座り、ぼんやりと食べ物を口に運んだ。ようやく我に返ったのは目の前のが黙々と食器を盆の上に纏め「ご馳走様でした。マッシュ食器貰っていい?食堂に戻してくる」と立ち上がった時だった。
「あ、お、俺が運ぶよ」
声が裏返ってしまい内心焦る。動揺しているのを悟られたくはなかった。それにさっきも風呂に入っている間に食事を運んで貰ったのだ。少しは動かないとばかり働かせているようで悪い。
「さっきは運んで貰ったんだから、俺が持っていくよ。もゆっくりしたいだろ」
「そう?…じゃあ、お願いしようかな…」
おずおずと差し出された盆を受け取って食堂に向かうと、そこはテーブルにいる客よりも俺のように盆を持ってくる客の方が多かった。すぐ終わるだろうと思っていたのに計算外だ。大人しく並んで自分の番を待ち、盆を返し終えてようやく部屋に戻るとがいない。名前を呼びながらウロウロしていると、風呂場の方からかすかな水音が聞こえてきた。待ちくたびれて風呂に入ってしまったのだろう。
後で遅れた事を謝ろうと椅子に腰かけて待っている間にも水音は聞こえていた。というよりは風呂場の様子を伺おうと耳を澄ませていた。勿論外の風の音が酷くて水の流れる音以外何も聞こえなかったのだが。この音が止んで彼女が風呂からあがったら、ついに俺達の関係は変わるのだ。
やがて水音が止み、風呂場の扉の開く音がした。何かを探すような音と「あれ?」「あー」と声が聞こえ、間を置かずが現れた。小走りで寝室に向かう途中で俺に気付き、「わ、びっくりした」と驚いた後笑顔になる。
「お帰り」
「ただいま。食堂が思ったより混んでて遅くなった。ごめんな」
「ううん。わたしも待ってたんだけど、お湯が温くなると思ってお風呂入っちゃった。マッシュもお風呂入る?」
「いや、俺はいい。飯の前に入ったし」
「そっか」
小さくつぶやく唇は紅く艶々で、熟れた果実のようだった。洗ったばかりの髪から落ちた水滴が部屋着の肩を濡らしていて、瑞々しい色気を感じた。その部屋着はサイズが大きいのか、袖を何度も折り曲げているのが可愛かった。抱きしめたくて手を伸ばしそうになっては慌ててひっこめる。そんな俺を訝しげに見たは「あ、そうだった」と寝室に駆け込んだ。随分急いでいるようだったので、何となく後を付けていった。
「どうしたんだ?」
「髪の毛拭くタオルここに忘れてたの。あーあ、肩、結構濡れちゃった」
そう言って白いタオルを手に取り、濡れた髪の毛を纏めながらくるくると頭に巻く。俺がやった事もない器用な動きが、女の子なんだと強く意識させた。不思議な頭になったは窓辺に歩き、カーテンを開けてため息をついた。その後ろから見た窓の外はさっきよりも荒れていて、真っ暗闇の中を木の枝や皺くちゃの新聞が激しく飛んで行く。見ていると、世界に俺達だけが取り残されたみたいだ。
「台風、さっきより酷くなってる気がする。宿屋が壊れる事はないだろうけど、なんか怖いね」
「そうだな」
外の荒れ狂う様子と対照的に静かな横顔から目が離せなかった。視線を感じたのか、ふ、と顔を上げて俺を見る。
しばらく無言で見つめあっていたが、俺がその頬にそっと触れると、は何とも言えない表情を浮かべた後、ゆっくりと瞳を閉じた。
赤い唇は、果実のようだと思った通りに柔らかく、ほのかに甘いような気がした。触れるだけでは物足りなくて舌を入れようとしたのだが、腰に回された腕に力が籠っていたのでやめた。既に緊張してしまっている彼女に無理はさせたくない。一度唇を離した後、ベッドにそっと座らせ、また触れるだけのキスを繰り返した。慣れてきたのか、何度も角度を変えては触れあった唇から切なげな吐息が漏れる。
もう大丈夫だろうと、ゆっくりベッドに押し倒した。その拍子に頭に巻いたタオルが取れて、黒い髪が生き物のようにベッドに広がった。洗いたての髪の香りにたまらない気分になって、上に覆いかぶさって抱きしめ、またキスをする。夢のような気分に浸りながら部屋着のボタンに手を掛けた。その途端の身体がびくんと跳ねて、慌てたように起き上がった。
「ちょ、ちょっと待って」
「どうした?」
「明かり。消して欲しいんだけど…」
の視線の先の、サイドテーブルに置いてある明かりは、少し腕を伸ばすだけで消える位置にある。頼まれたものの、消す事をためらった。
「…消したら真っ暗になるんじゃないか?何も見えないぞ」
「うん。だからこそ消して欲しい」
「俺は見えた方がいいんだけどな…」
ポロリと本音を漏らすと、は明らかにうろたえた様子を見せた。恥ずかしがっているような戸惑っているような反応が可愛い。さっき俺の裸を見て照れていた事を思い出し、ついさっき無理をさせたくないと思ったばかりなのに、今度は急に苛めたくなって自分の部屋着を脱ぎ上半身裸になった。ぎょっとして、慌てて横を向くに見せつけるように、今度は下のズボンも脱ぐ。
「ほら、俺も脱いだから。二人とも裸なら恥ずかしくないぞ」
「そう言う問題じゃない」
「服を着てるから恥ずかしいんだ。も早く、脱げよ」
「え、ちょっとマッシュ、なんかいつもと違う…」
「この状況でいつも通りでいられるわけがないだろ?早く脱げよ。脱がせてやろうか?」
「…もう、とにかく恥ずかしいの。明かり消してよ!」
はついに半泣きで抗議して来た。これ以上苛めるのはまずいかと素直に明かりを消すと、やはり真っ暗で何も見えなくなった。自分で消せと言ったくせに、いざ真っ暗になると怖かったのだろう。「思ってたより暗かった…」と真っ暗闇から声がした。
「やっぱり明かり、つけようか」
むっとした。ような気配がした。立ち上がったのかベッドのスプリングが軋んだ音がする。部屋の空気が揺れた直後、急に目の前が薄明るくなった。が窓辺に寄ってカーテンを開けたのだ。外も夜だから暗いのは暗いのだが、街灯の明かりが僅かながら部屋に入り、お互いの影が見える程度には明るい。俺としてはいまいちだが、にとっては十分だったようだ。振り返って部屋の様子を見回し、明るさの具合を確かめると、満足して(そんな気配がした)ベッドに戻って来た。腰を下ろした所で再び抱きしめて、今度はさっきよりも勢いよくベッドに押し倒す。そのままの勢いで部屋着のボタンに手を掛けると、今度は身体を見られる心配が無くなったためか、さっきよりも抵抗しなかった。
服を脱がせ、胸だろうと思われる部分に触れた途端「わっ!」という叫び声とともに、の身体が硬直する。驚いて思わず手を引き、必死で謝った。
「あ、わ、悪い!怖かったか?」
「だ、大丈夫!ちょっと驚いただけだから!もう大丈夫!ほんと大丈夫だから」
何度も繰り返される大丈夫、の言葉に励まされるように、再度触れてみた。滑らかで柔らかく、マシュマロのようなこの感触は間違いなく胸だ。気持ち良くてしばらく揉んでいると、揉んでいる手のひらに固いものが当たった。
何となくそれを指で押してみると「んっ!」と甲高い声がした。さっきの叫び声とは違って、どこか媚びるような響きだ。唾を飲み込んで、つついたりつまんだりしてみた。何度も身体を撫でまわしたり、お尻にまで手を伸ばしてみた。最初は強張っていたの身体が面白いくらいにくなくなと動き、甘い声が絶えず漏れ出す。そうしているうちに首の後ろにするりと細長いものが伸びてきた。 が腕を回してきたのだと理解した途端、この期に及んでも遠慮していた気持ちが吹き飛んで「ああ」とため息が漏れる。
ずっと好きだった女の子が、俺を信頼し、好きになって、受け入れて始めている。それが嬉しかった。
こんなに幸せな夜を、これからも彼女と過ごせたら。
「」
「ん?」
「いい?」
「……うん」
の腰に手を掛け、下着を下ろしながら、俺はそう遠くない未来を夢見た。
外が眩しく感じて目を開けると、部屋はすっかり明るくなっている。開けっぱなしのカーテンから見た窓の外は、昨日の台風が嘘のように晴れていた。良い気分で起き上がると、隣で寝ている筈のがいない。どこに行ったのかと不安になった時、風呂場から歩いてくる足音が聞こえてほっとした。心のどこかで、あれは夢だったのではないかと疑っていたのだ。
軽やかな足音を聞いていると、笑顔になるのを押さえられない。にやにやしながら、朝食は食べてから出るか飛空挺に戻ってから食べるか、どこかで買って歩きながら食べるか考えていると、ドアが開いてが入って来た。飛空挺を出た時の服に着替え、呑気に鼻歌を歌いながら。
そこまでは全くいつも通りだったが、俺を見た途端、茹でダコのように真っ赤になった。一度ドアを閉め、今度はゆっくり開ける。隙間から覗いた真っ赤な顔で、消え入りそうな声で「おはよう…」と言う。
一連の動きを見ているとこっちまで照れてしまって、急に体が熱くなってきた。何とか「お、おはよう」と返したものの、身体が硬直してしまって指一本動かせない。ついでに昨夜のあれやこれやを思い出して、頭に血が上ってしまった。情けない。俺はモンク僧だし、よりも遥かに年上なのに。
「あの、ご飯どうする?さっき覗いたら、食堂混んでたよ」
「え、あ、そうだな」
これからの予定を頭の中で描いてみた。太陽は思ったよりも高く上がっている。混んでいる食堂で朝食を取っていたら飛空挺に帰るのは遅くなりそうだし、そもそも無断で泊まる事になったのだから、皆心配しているだろう。「飛空挺に戻ってから食べようか。他の仲間の安否も気になるし」と言うと、「わたしもそれがいいと思ってた」と頷いて頭を引っ込めた。顔を見ると硬直していたくせに、顔が見えなくなると急に名残惜しくなって、素早くベッドを整え寝室を出た。俺が寝ている間に部屋を片付けていたらしく、テーブルで使ったカップやタオルは全部元の場所に仕舞ってあり、いつでも帰れるようにしてある。
昨日に続いて、またもばかり働かせてしまったようだ。
「………」
「マッシュ、どうしたの」
「いや…何でもない」
「そう?ねえ、もう出る?まだゆっくりする?」
「うーん…チェックアウトの時も混むかもしれないし、もう出よう」
「うん」
素直に頷いて、は荷物を持とうとする。それを制して荷物を持つと、は「ありがと」と小さく笑った。
宿屋を出ると、雲ひとつない青空が広がっていた。空気も澄んで清々しくさえある。町の出口へ向かって歩いていると、隣を歩いていたが少し後ろを遅れて歩くようになっていて、慌てて歩く速度を落とした。普段から歩幅を合わせるようにはしているのだが、今日は特にゆっくり歩いてあげないといけなかったのに。
「、その、身体は大丈夫か?」
「え?」
「いや…朝から色々働かせちまって。もその、疲れてるだろうし、身体も、痛かったりしねえか?」
言葉を濁す俺を最初はきょとんと見上げ、やがてふわりと包み込むような笑顔を浮かべて見上げて来た。この子の幸せそうな顔は、どうしてこんなに胸が一杯になるのだろう、そう思って見惚れていると、空いていた俺の手にの手が触れた。そのまま手をつなぎ、今度は俺を引っ張るようにして歩き出す。
「マッシュってば、わたしの心配ばかりしてる。荷物も全部持ってくれてるし、いつも以上にゆっくり歩いてくれてるのに」
「そりゃ、昨日の今日だから、心配になるだろ」
「……へへ」
「どうした?」
小さく笑う声に、何かおかしな事でも言ったかと首をかしげた。は下を向いたまま「マッシュの心配性で優しいとこ、わたし好きだよ」と甘えるような声音で言う。
「…荷物持ってくれたり、支えてくれる強いとこも好き。笑った時の顔も、その時に大きく開く口も好き。困ってる時に、一番最初に気付いてくれるところも好き。優しく触ってくれる、汗っかきの手も好き」
が少し距離を詰めてきた。ちらりと俺を見上げ、恥ずかしそうに笑う。
「マッシュの事、好きだよ。前から好きだったけど、もっと好きになった」
「…先に言われちまった」
「え?」
俺から先に言いたかったのに。
そう言っての肩を抱き寄せると、小さな身体は急に体温を上げて、ますます俺に密着した。
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