「あ……」
勝ち誇るようにうごめく、老人と木が融合したような魔物を前にして、わたしは死を覚悟した。
これでもスライム程度なら木の棒で追っ払ったことも、足の遅い魔物から余裕で逃げ切ったこともある。けれどこの魔物は攻撃にもひるまず逃げようとしたら先回りし、おまけに腕のような太い枝で顔を殴ってきた。痛みと恐怖で腰を抜かしていると、ようやく怯え始めたわたしを満足げに見下ろし、じわじわと枝を伸ばしてくる。
近道だからと森を抜けようとしたのが間違いだった。時間はかかるけど舗装された道を通ればこんなことにはならなかったのだ。帰りが遅れて怒られるくらい、魔物に殺されるのと比べたら、どれだけましなことか。
してもしたりない後悔を胸のうちで叫びながら、涙と鼻水で顔を濡らし、せめてひと思いに殺して欲しいと願いながら、これ以上に無いくらい固く目を閉じた。
閉じたのと同時に耳をつんざくような断末魔が聞こえた。この状況を考えると自分の断末魔だと考えるのが自然だけど、わたしは怖くて声も出せなかった。それにいつまでたっても魔物の攻撃がこない。これは予期しない何かが起こったに違いない。そう結論付けて恐る恐る目を開けた。
目の前に、剣の刃先とブーツを履いた人の足があった。その向こうには、ぴくりとも動かない魔物が横たわっている。どうやら助けてくれたのはこの、旅人っぽい身なりをした男の人(多分)のようだ。男の人が剣を鞘に納める音がやけに辺りに響いて、ついびくんと体が跳ねた。
「立て。動けない傷じゃないだろう」
こっちに背を向けているのに動いた気配を察知したのか、命令されるように声を掛けられた。青い帽子のその人は言い方がつっけんどんで、なんだか責められている気がする。慌てて立ち上がろうとすると、いつも当たり前にできているその動作が出来なくて、その場でもぞもぞするだけに終わった。男の人の言うとおり足は無傷なのに、言うことを聞かない。
みっともなくあがいていると、「ちっ」と舌打ちが聞こえた。怒っているのか、呆れているのか、それともその両方か。この人は言わば命の恩人だ。だからこんなこと言う立場じゃないのは分かってるけど、怖い。
「ご、ごめんなさい、腰が抜けちゃったみたいで」
焦って立ち上がろうと奮闘していると、男の人がわたしの目の前にしゃがみ込んだ。そこで初めて、その人の顔を間近で見た。
「こ、子ども!?」
どんな人かと思えば、命の恩人はわたしと同い年くらいの男の子だった。喋り方や旅慣れた様子で顔を見るまで大人だと思っていたから、そのことにも、この辺では珍しい銀髪にも、つんとした女の子みたいな整った顔立ちをしていることにも驚いた。驚きだらけだ。
「…助けてもらっておいて、それか」
男の子はあからさまにむっとした。弾みで出た言葉の失礼さに気付いて謝ろうとした矢先、背中とひざの裏に腕を回された。腕はうちの兄よりも断然太くて筋肉質だ。その太い腕で勢いよく抱きあげられた。人生初のお姫様抱っこだ。
「え、あ、何を」
「一番近い町まで送ってやる。そこから先は自分で何とかしろ。気まぐれで助けてやったのに、死なれちゃ迷惑だ」
森を出て一番近い町なんて、わたしの住んでいる町以外にない。言い方は冷たいけど、要は腰を抜かして動けないわたしを安全な所まで送ってあげる、と言うことらしい。「すみません…」と小さく謝ると「フン」と鼻を鳴らし「また魔物がこないとも限らないから回りをよく見ておけ。それぐらいできるだろ」と早足で町の方向へ歩きだした。
森を抜け、町の中に入ると、男の子は「立てるか」と聞いて来た。恐る恐る地面に両足を付け重心を預け、倒れないように握ってくれている手をそっと離す。足元がおぼつかないけど問題ない、立てる。男の子はわたしの様子を見て、何も言わずにその場を去ろうとした。
「あの、ありがとうございました!良ければお名前を…」
「テ……ィだ」
「え?T?」
ぼそぼそしてよく聞き取れない。もう一度聞こうとすると「森爺なんか、ガンディーノの魔物と比べれば雑魚同然だ。次からはあんな魔物一匹、一人でどうにかしろよ」と冷たく言われ、わたしは分かりやすく怯み、名前どころではなくなった。そうしているうちに男の子は町を出て行き、立った今抜けたばかりの森に向かって歩き出した。後ろ姿は小さくなり、ついには完全に見えなくなる。
きっとあの子はわたしとは逆方向に森を通り抜けるつもりだったのだ。けれどわたしが襲われたのを見て、しかも腰まで抜かしてたから、わざわざ引き返して送り届けてくれたんだろう。
おっかないけれど、悪い人ではない。むしろいい人だ。
その後帰りが遅かったことを親に怒られたわたしは事情を説明したが、今度は「どうして命の恩人を家まで連れてこなかったのか、何のお礼も出来ないじゃないか」とさらに怒られる羽目になった。
名前も聞かなかったのかと問い詰められ、聞いたけど良く聞こえなかった、と答えようとした。けれど父は険しい目でわたしを睨んでいる。これ以上怒られたくないわたしは、必死でさっきのやり取りを思い返した。
『ガンディーノの魔物と比べれば雑魚同然だ。この辺に住んでるんならあんな魔物一匹、一人でどうにかしろよ』
「…あ」
「どうした」
「多分あの人、生まれはガンディーノ。名前は………Tさん」
「ふざけているのか」
「ふざけてないよ!本人がそう言ってたもん!」
本当は微妙に違うけどわたしにはそう聞こえたし、ガンディーノの魔物のことを知っているという事は、きっとガンディーノ出身の人だ。力強く反論するわたしに父はそれ以上怒りはせず、「ガンディーノ生まれのTさんか。どこかで会ったら礼をしないとな…」と呟いた。
それにしても、あんな子どもなのに、一人で旅をして魔物と互角に戦うなんて。
ガンディーノ生まれは凄い、わたしはそう思った。
ガンディーノ生まれのTさんと再会したのは、その一年後だ。
颯爽と現れた命の恩人の「森爺くらい一人で何とかしろ」の言葉は、時が経つにつれてわたしの心にひたひたと浸みこんだ。だから必死で頼み込んで、父が仕事で森を抜ける時には必ず同行し、魔物が出るたびにひいひい言いながら戦って経験を積み、そうしているうちに本当にあの森爺とかいう魔物くらい、余裕で何とか出来るようになってしまった。
やがて姉や友人、知り合いが出かける時の用心棒代わりに付き添って町の外に出る機会が増えた。いつの間にかこの町ではそこそこ腕が立つ存在になっていたらしい。強くなったから一人で出歩くことを親にも誰にも咎められない。魔物怖さで町に閉じこもって暮らすことにストレスを感じていたわたしにとって、これはとんでもなく爽快なことだった。
そして今日は大事な用があって、前に数回訪れた事のある町に向かっていた。薬草も沢山持ったし武器も新調したばかり。ここいらの魔物はそう強くない、楽勝だ。
そんな余裕をあざ笑う出来事が起きた。
「やーもう!何これ!!」
スライムだと馬鹿にしたのが悪かった。適当にあしらっていたら、スライム達はひっきりなしに仲間を呼び、倒しても倒してもきりがない。イライラしながらこん棒で殴って気絶させていると(スライムにはこれで十分だと剣すら抜かなかったのだ)、一匹が顔に飛んできて、ぺちんとひっついた。
「ひいいい!見えないー!」
そいつは見事にわたしの視界を塞ぎ、慌てて引っぺがそうとしてもぴったりくっついて外れない。青っぽい暗闇の向こう側では、調子づいたスライム達が体当たりしているのだろう、体のあちこちに地味に痛い衝撃を感じる。
見た目も可愛いスライムは攻撃まで可愛い…とバカみたいなことを、顔を塞いでいるスライムのせいで息苦しい中考えていると、ピギャー!とかキュイー!とか、周囲で甲高い叫び声が響いた。
「キュー!」
わたしの顔にくっついていたスライムが、やけにかわいい声を上げて顔から離れた。正確に言えば、誰かに剥がされた。いきなり明るくなった景色に目を細め、そこにいた人物に今度は目を丸くした。
「スライムごときで手こずる奴なんか、初めて見たぜ」
見覚えのある青い帽子、嫌味かと思える言葉、珍しい銀髪、青い瞳。一年もたっているから忘れてたけど、一年しかたっていないからすぐに思い出せた。
「あ…あなたは確か、ガンディーノの…」
少しあどけなさの消えた男の子――Tさんは、いきなり自分の出身地(であろう場所)を口にした女を不審な目で見た。取り繕おうと「あの、一年ほど前に、森の中で魔物に襲われてた時に助けていただきましたよね?ええと、ダーマ神殿跡地の近くの森で…」とまくし立てると「ああ」と小さく頷いた。すぐに思い出してくれたのが妙に嬉しい。
「その時あなたがちらっとガンディーノのことを話してたので、覚えていたんです。いつか必ずお礼しないと、と思って…あの時は本当にありがとうございました…」
Tさんが黙っているので、いたたまれなくなって言葉はしりすぼみになった。うるさすぎただろうかと思って黙り、初めて周囲を見回すと、青いこぶを作って目を回しているスライム達が転がっている。Tさんの手にはわたしのこん棒が握られていた。同じ状況で同じ武器を使ったのに、わたしは死にかけ、この人は余裕でスライム達を倒した。つまりそれだけの強さの差があるのだ。
「とにかく助かりました。次々に仲間を呼ぶから、ちょっと手こずってたんです」
「こいつらは集まるとキングスライムになる。そうなるともっと厄介だ。だから早く一気に片付けるのがセオリーだが…」
男の子ははあ、と呆れたようにため息をついた。
「油断したんだろ」
「おっしゃる通りです……」
素直に認めたのが良かったらしい。男の子は「まあ、見ただけじゃ普通のスライムか仲間を呼ぶスライムかなんて見分けられないしな」とフォローしてくれた。そうだ冷たい言い方をするけど、決して冷たい人ではなかった。一年前の別れ際のことを思い出して気を取り直していると、Tさんはわたしの右腕をじっと見つめていた。見ればスライムにつけられたのか旅の途中で負ったのか、袖が破れてかすり傷が出来ている。
薬草を使うほどでもなかったけどTさんの視線が気になって、荷物から薬草を取りだそうとした。その腕をTさんはぐっと掴む。
「きゃっ」
「じっとしてろ」
Tさんが傷に手をかざし目を閉じると、手のひらから生まれた小さな白い光が傷を覆い、あっという間に傷は塞がった。
「え、え?き、傷が治った!今のは!?」
「…ホイミも知らないのか」
「ホイミ?」
「傷を治す魔法だ」
「魔法!?」
世界は広いから魔法を使える人はそりゃあいるのだろうけど、実際に目の前で魔法と、魔法を使う人を見たのは初めてだった。これがガンディーノ生まれの実力か!と興奮しているわたしをよそに、「傷を治したい時は薬草よりもホイミの方が効率がいい。特に荷物を取りだす手間も惜しい戦いの時は」とTさんはこともなげに言う。確かにさっきは回復したくても、なかなか薬草を取りだす暇が無かった。
「…わたしにも使えるんでしょうか」
「強力な魔法は素質や修行がいるだろうが、ホイミくらいなら誰でも使える」
誰でも使えるったって、どうすればそんなこと出来るようになるんだろう。
「傷に意識を集中して、治った状態をイメージしながら呪文を唱えるだけでいい。最初は失敗するが、そのうち傷が癒えている事に気付く」
心の声が聞こえたかのようにTさんがアドバイスしてくれた。魔法かあ。難しそうだけど使いこなせればかっこいいかも。
強力な魔法を使いこなす自分を想像してニヤニヤしていると、Tさんがさっきの優しさはどうしたのか「何を笑っているんだ」と言わんばかりの刺すような目をしている。わたしはそっと視線を逸らした。Tさんは、最初に会った時も思ったけどやけに整った顔立ちをしているから、冷た言い方をされると自分が凄く惨めに思えてくるのだ。急に居心地が悪くなり、謝罪とお礼をまた繰り返した。
「すみません…あと、傷、治して頂いてありがとうございます…」
「ホイミも使えない奴が、どうしてこんな所をうろついているんだ」
「あ…実はこの先にある町で、ドレス用の生地を買ってくるように頼まれたんです。もうすぐ姉が結婚するので」
Tさんの雰囲気が微妙に変わった。どうでもよさげな感じから、ぴりっとした緊張を帯びたものに。この人が何か言ったわけでも身動きしたわけでも表情を変えたわけでもない。けれど、何気ない言葉がTさんの内面に触れたことに気づけるくらいにはわたしも成長しているつもりだ。
「あの、」
「だったらなおさら気をつけろよ!」
わたしの声にTさんの声が重なった。「自分のせいでお前に何かあったら、姉貴が悲しむに決まってるだろ!」
はっとした。わたしが出かける前、姉に何度も「気をつけてね」と言われていた。旅慣れたつもりで腕に自信があるつもりでもいたわたしは「もう、わかってるよ」と聞き流していたけれど、どうして今日に限ってこんなにしつこいのだろうと不思議に思っていた。
たかがスライムに苦労した悔しさとTさんと再会できた驚きで、肝心なことを忘れていた。あのままスライム達がキングスライムになったら間違いなくわたしは死んでいたし、たとえキングスライムにならなくても、スライムに窒息させられて死んでいた、と言うことを。もしそうなったら両親は勿論悲しむし、特に姉は自分を責めるかもしれない。Tさんに助けられたのは、本当に運が良かったのだ。
「ごめんなさい…これから気をつけます」
「!?」
命の危機だったというのに呑気にペラペラしゃべっているのだから、Tさんの怒りは最もだ。自分の馬鹿さと危機感のなさがたまらなく悔しい。何度も助けて貰ったのにさらに迷惑はかけられない。幸いけがはさっき直して貰ったばかりだし、落とした荷物を拾い上げた後一礼して町に向かって歩きだすと、また腕を掴まれた。
「今から町に行くのか」
「は、はい」
「俺も行く」
「え、でも、」
「お前のためじゃない、俺もその町に用があるだけだ。…少し言いすぎた、だから泣くな」
スライムに襲われたのが町の近くだったことと、腕の立つTさんと一緒だったこともあって、その後すぐに町に到着した。
わたしがお店に行って注文した生地を受け取り、ついでに姉に贈る結婚祝いも買い終えてTさんの所に戻ろうとすると、Tさんは大通りを眺めながら、道行く人を注意深く観察していた。時折旅人や商人風の人が通りかかるのを見かけては近づいて何か尋ね、首を横に振られる度に暗い表情になっていく。いかにも訳ありな感じだったので、気付かなかったふりで近づくと、わたし以外にもTさんに近づく人がいた。濃いピンクのワンピースを着た、ちょっと派手な感じの女の子だ。
知り合いだろうか。いやもしかして、恋人、とか。もしかしたらあの子に会うためにこの町にきたのかもしれない。
そう思った途端、もやもやともイライラともつかない言いようのない気持ちになった。女の子は背が高く、露出した肌は傷一つ無い。すらりと伸びた腕も脚も形がよく、目鼻立ちのくっきりした綺麗な顔をしている。腕も足も筋肉質になり、動きやすさと身の安全を兼ねて男物を着ているわたしとは真逆だ。あんな綺麗な子に言い寄られて気を悪くする男の人なんて、きっといないだろうな。
結論から言えば、それは杞憂だった。Tさんは笑顔で話しかけてくる女の子に見向きもしない。笑顔も向けない。それどころか五月蠅そうに手を振って追い払ったのだ。女の子がむくれながら人ごみの中に消えて行ったのを見届けて、手を振りながらTさんに近づいた。女の子の時と同じように笑顔にもならないし当然手を振り返すこともなかったけど、ぼそっと「遅かったな」と言ってくれた。
女の子には悪いと思うし自分の性格も悪いとは思う。けれどそれだけで、わたしの心は軽くなった。
町の出口まで連れだって歩いた後、Tさんは「俺はもう少しこの町に残る。お前も今度は油断するなよ」と言って、更に付け加えた。「この辺の魔物はガンディーノと違って雑魚ばかりだから、油断さえしなければお前でもどうにかなる。だがホイミくらいは覚えとけ」
「はい……」
自分でもびっくりするほど沈んだ声が出て、はっと口元に手をやった。別れるのが寂しい、なんて言いたくない。言ってしまったらさっきの女の子みたいに軽くあしらわれそうで怖かった。
「だから油断しなければ大丈夫だって言ってるだろ。じゃあな」
Tさんは背を向けて町に戻って行ったので、わたしも町を出ようとしたけれど、気持ちが沈んでいるせいか足取りまで重い。数歩歩いてはため息をついて、を繰り返していた。
再会したのは嬉しかったけれど、もしかしたらもう、会うことは無いのかもしれない。そう思えば思うほど足は重くなって、とうとうわたしはその場に立ち尽くした。
「おい」
「……」
「おい!」
「はい!」
後ろから大声を出され、反射的に振り向くと、Tさんがいつの間にか戻ってきていた。どうしたのかと尋ねる前に「あんまり怯えてたからまだ町にいるだろうと思ったら、案の定だ」と相変わらずの冷たい言葉を放つ。どうやらTさんは沈んだわたしの様子を、帰り道への不安からくるものだと解釈したようだった。
ぽかんとしていると、「ほら」と翼のようなものを押し付けられた。道具屋で見かけたことはあるけど、何に使うのか気になっただけで買ったことのない道具だ。翼とTさんを見比べると、「キメラの翼だ。それがあれば元いた町まで一瞬で戻れる」と教えてくれて、これってそんな便利なものだったんだ、もっと早く使えば良かった、とただ感心した。
「あの、わざわざ戻ってきてくれたんですか?」
「好きで戻ってきた訳じゃない。お前に用があるのを忘れていた」
Tさんは不機嫌に言った後、わたしを真正面から見据えた。見つめられるだけで緊張するけれど、目を逸らそうとは思えない。もう会えないかもしれないこの人の顔を、目に焼き付けておきたかった。
「な、なんでしょう」
「この世界のどこかに最強の剣が眠っていると言う噂、お前は聞いたことがあるか?」
「最強の剣…?いえ、聞いたことないです」
Tさんは聞いておきながら、だろうな、という顔をし、次の質問に移った。
「じゃあ、とにかく強い奴の噂は聞いたことがあるか?魔物でも人間でも、俺よりも強そうな奴なら何でもいい」
確かな情報じゃなくても、噂でもいいということなら、一つ小耳にはさんだ情報がある。
「確かアークボルトって国の話なんですけど、その国と他の国を繋ぐ洞窟に強い魔物が住みついたそうなんです。それで旅人が行き来できなくなってしまって、お城で魔物退治できる人を募集しているって噂なら聞きました。あ!それから魔物退治をしてくれた人には、王家に伝わる剣をくれるそうですよ!」
紫の目に光が宿った。不器用な優しさを見せるこの人にしては危険を孕んだ鋭さだったのを覚えている。
「そうか。アークボルトか」
だけどその光が宿ったのは一瞬で、Tさんはなにか考え込む素振りを見せた。この町を出たらアークボルトに行くのだろうか。それならわたしも姉の結婚式が終わったらアークボルトに行ってみようかな。ただしあの辺は魔物も強くて危険らしいから、わたしでは太刀打ちできないかもしれない。じゃあもう少し経験を積んで…などああだこうだ考えていると、Tさんは「もう一つだけ聞きたいことがある」と、またわたしに向き直った。
「ミレーユ、と言う女を知らないか」
「えっ」
「俺より少し年上の、金髪で緑色の目をしている。ガンディーノ城に無理矢理奴隷として連れて行かれたが、その後彼女に良く似た女が城から逃げるのを見た奴がいるらしい。だから俺は、世界のどこかにいるその人を探している」
その人の名前を口にしたTさんは、真剣で必死で、どこか傷みを堪えるような表情をしていた。
わたしを見る時もさっきの女の子を見る時も、こんなに思い詰めた顔なんかしていなかったことに気付き、目の前が真っ白になった。いちいち聞かなくても分かる。ミレーユさんと言う女性はTさんにとって大事な人、なのだ。
「誰もが振り向くような綺麗な人だ。そのせいで…いや、とにかくそういう女を見かけなかったか?」
ショックを受けながらも、無意識に首を横に振っていたらしい。Tさんの瞳が虚ろになっていく。思わずごめんなさい、と呟くと「別に謝ることはない。知らないものは仕方ないだろう」と、つっけんどんにフ。ォローしてくれた。きっと心はミレーユさんのことが心配で仕方なくてわたしどころではないのに、なんて冷たくて温かい人だろう。
「すまないな、色々聞いて」
「…はい。色々ありがとうございました。ティ…っ!」
「なんだ」
わたしは一番大事なことを聞いていないのをようやく思い出した。別れ際に気付いてよかった。「今更何だ」とか「前に言ったはずだ」と言われる覚悟だけして、「あの、お名前を伺っていいでしょうか!」と元気よく叫んだ。
「……前に言ったはずだが。それに、今まで聞く機会はあったはずだが」
やっぱり冷やかな返事だ。きっと呆れたのだろう。けれどそれで落ち込んでるTさんの気が紛れるなら、道化になるくらい何でもない。
「そうですよね、そうなんです!でもティ、だけしか聞こえなくて、勝手にTさんって呼んでたんです!で、まだ本当の名前を聞いてない事に気付いたんです!今まで名前を聞くの、忘れてたんです!」
元気に叫ぶわたしを冷たく見ていたTさんの顔がくしゃりと歪んだ。え、何だ何だ、もしかして泣く!?と焦ってあたふたと手を振っていると、鋭い紫の目が三日月のように細くなった。固く閉じられていた口の端が上がっている。間もなくその口が僅かに開いて、そこから「はは、」と小さな声が漏れた。
「変な奴だな、お前」
信じられない事が起こった。Tさんが笑っているのだ、目の前で。しばらくぽかんと見つめていたけれど、落ち込んでいたTさんを笑顔にする事が出来たのと、意外にもTさんの笑顔は屈託のない気持ちのいいものだったから、それだけで一気に距離が縮まった気がして、一緒に笑った。
「じゃあよく聞いておけよ。聞こえなかったら聞き直せ」
笑いあった後、Tさんが声を大きめにして、ゆっくりと口を動かした。心なしかさっきよりも口調が優しくなった気がする。
「はいっ」
「俺の名前は、テリーだ。聞こえたか?」
「聞こえました!テリーさん!」
「よし」
Tさん…ではなくてテリーさんは可笑しそうに頷き、「お前の名前は?」と尋ねてきた。
「え、え、わたしの名前ですか」
「人の名前だけ聞いて、自分が名乗らないのはどうなんだ?」
天にも昇る心地だった。あちこちを旅していて、しかもさっきみたいに女の子に声も掛けられることが多いだろうTさんから見れば、わたしなんてただの通りすがりに過ぎない。しかもたった今、大事な女性がいると聞いたばかりだ。だから名乗らないし名乗れないし、それでも何の興味も示されないだろうと思っていたのだ。
嬉しさで声が震えるのを押さえながら「、といいます。周りの人からはと呼ばれています」と名乗った。
「そうか。じゃあ、気をつけて帰れよ。家族が心配するぞ」
「は、はい。テリーさんもお気をつけて」
小さく笑って応えたテリーさんはわたしに背を向けて大通りに戻って行った。今度こそ、本当にお別れだ。
テリーさんの姿が見えなくなってからも、さっきとは違う理由で、わたしはその場から動けなかった。自分の中でウサギみたいに跳ねまわる感情をどうしたものか分からなくて、ただその場に突っ立って動悸が鎮まるのを待っていた。
ほんの短い時間を一緒に過ごした。それなのに、頭も心もあの人の事で一杯になった。
わたしはテリーさんに恋をした。それも多分、初恋だ。
出会ったのはたった二回だ。その二回で、人の心ひとつをこんなにも変えてしまうなんて。
ガンディーノ生まれは凄い、わたしはそう思った。
旅に出よう、そしてテリーさんとまた会おう。
その思い一つで旅に出たわたしが、世界を救おうとしている皆と出会うのは、もう少し先の話である。
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