この町も随分賑やかになったものだ。
広場のベンチに買い物かごを抱えて座りながら、最近幾度となく感じてきたことを今日も感じていた。
秋晴れの暖かい陽気に誘われたのか、広場には同じようにベンチに、或いは噴水の脇に腰掛け、或いは歩きながら、のんびりした時間を過ごしている。目の前のベンチには恋人同士と見受けられる若い男女が座って、楽しげに会話していた。娘の方は空色のワンピースのすそをひらひらさせながら男にじゃれついている。似たような服をあちらこちらで見かけた。色こそ違えどどれも似たり寄ったりの、袖と裾がふわりと広がったワンピースで、着ているのはやはり彼女と同じ年頃の若い娘ばかりだ。
流行の物を着るなとは言わないしそもそも言う権利も無いが、お陰で私のような年の者にはどれが誰だか区別がつかない。口の悪い隣家の女房に言わせれば、「今の若い娘は流行のものにすぐ飛びついて、個性ってもんがない」のだそうだ。そう言う彼女も隣に嫁いできたばかりの頃は、これが流行っているのだと言って、似合いもしない巻き髪を作って時間をかけて整えていたものだけど。
きっと、誰もが若いうちは流行が気になり、老いてくれば流行が気に障るようになるのかもしれない。流行を追えるのは若い者の特権でもあるから。かく言う私も娘時代は、流行っていた黒髪に憧れて、草木の汁を煮詰めたどろりとした液体で――友人たちの間で思考錯誤して作り、これが一番よく染まると盛り上がった秘密の薬だ――焦げ茶色の髪を染め上げたものだ。
今はそんな事をしなくても、髪を染める専用の薬が安価で買えるそうだ。嫁に行った娘に聞いて、初めてこの町が年々色鮮やかになってきた理由が分かった。金髪、亜麻色、黒髪、赤毛。どの髪も元からその色の髪で生まれたのかと思えるほどに美しく輝いている。昔も髪を染める薬はあったことはあったが、染めるための粉を専用の液体に溶かすのに時間がかかり、それを斑にならぬよう上手く髪に塗りつけるのは至難の技で、手間暇かかる上に町娘が気軽に買える値段ではなかった。
さっきの服にしてもそうだ。空色、桜色、淡い山吹色。柔らかさを感じる色が街に溢れるようになったのは最近の事で、こんなに色とりどりの服を普段から着ていられるのは、かつては一部の上流階級の娘だけだった。
自分の若い頃を思うほど、今の若者を羨ましく思う。
もし私があの頃、綺麗な色の服を毎日のように着ることが出来たなら。
憧れていた輝く黒髪を安易に手に入れることが出来たなら。
若い日々はきっと、もっと色鮮やかに輝いていたことだろう。そして「そういう色がお前は似合う」と一度だけぶっきらぼうに、でも照れ臭そうに夫が褒めてくれた若草色の服を、一張羅だからと仕舞い込むこともせず、もっと着て見せる事が出来たかもしれない。
夫の葬儀の後、遺品を整理していた時に見つけて袖を通したその服が、とっくに似合わなくなっていた事を思い出して、私は苦笑した。
全ては遠い昔の事だ。華やかさに惹かれた娘時代も、浮足立つ気持ちも、今は亡き夫の言葉も。
不意にひゅう、と冷たい風が吹いて、初めて日が傾き始めている事に気が付いた。
普段は折り合いをつけて過ごしている胸の内のやるせない感傷は、何かの拍子に突然強さを増し、乾いた布に水がしみ込むようにじわじわと心を侵食していく。秋から冬へ季節が移り始め、吐く息が白くなる頃にはそれが顕著に表れて、私自身をも戸惑わせた。華やかになったこの町は暗い夜の寒さだけは昔のままだ。いや、昔よりも寒さがこたえる様になった。このままここに居ても感傷的になった挙句風邪をひくだけだ。この歳では風邪だって命取り、決して馬鹿には出来ない。
「よっこいしょ……っと」
立ち上がった拍子に籠から玉葱が転がり落ちた。立つ事に気を取られ過ぎて、籠の中に注意を払う事を忘れていた。慌てながらも近くに転がった一つをしゃがんで拾い、立ち上がろうとして膝に走った激痛にまた蹲った。
人通りはいつの間にか疎らになっており、僅かに居る人々も家路を急いでいて、婆一人の動向など気付きもしない。娘や周りに迷惑をかけまいと一人で暮らす事を選んでいながらふとした瞬間に孤独を突きつけられると、その事実は膝の痛みよりも鋭く私の胸の奥を刺した。あと数年後、いや明日にでも天からお迎えが来れば、このやりきれない痛みから解放されるのだろうか。またも感傷に溺れそうになった。だが、今は立ち上がって玉葱を拾う事が先だ。
「大丈夫ですか、レディ。私の手につかまって」
目の前に差し出された手に、一瞬痛みを忘れた。大きくて指の長い端正な手から視線を上げると、金髪を束ねた若い男が、心配そうに私を見つめている。
「おや、随分なハンサムさんだこと」
目の前の男は私の言葉に二、三度瞬きをした後、微笑んだ。端正な顔立ちに良く似合う優雅な笑顔だった。
「ありがとう」
笑顔のまま男はもう片方の手を出してきた。そこには私がさっき転がした玉葱が二玉握られていて、無性に申し訳ない気持ちになった。そんな事をさせてはいけないように思えたのだ。何故かと問われれば年の功と言わざるを得ない。何十年も生きているのだ、人の良し悪し、品性や地位など、それなりに見る目は養われている。
「こちらこそありがとうねえ。こう寒い日には膝がすぐ痛むのよ」
玉葱を受け取って籠に戻したが、男は差し出した手を戻そうとしない。訝しく思って顔を上げると「どうぞ手を取って」とでも言うようににこりと笑う。
本気でこの老婆の手を取る気なのか。皺くちゃの手をおずおず差し出すと、力強い張りのある手にすっぽりと包まれた。私が膝をゆっくり動かして何とか立ち上がるのを、男は辛抱強く待ってくれた。
「ありがとう、助かったよ」
「どういたしまして。素敵なレディのお役に立てて、私こそ光栄だな」
男は腰をすっと下げて、優雅にお辞儀する。その仕草と言葉に私は声を上げて笑った。こんなに楽しい気分は久しぶりだった。
「レディだなんて、あなた、こんなしわしわのお婆ちゃんなのに」
「私は女性は皆レディとして扱う主義なのですよ、年上のレディ」
これが町の悪餓鬼の台詞なら年寄りをからかうんじゃないと一喝する所だが、男の立ち振舞いはあまりにも自然で、普段からこのように振舞っているのだろうと思えた。それで私は心からその言葉を喜ぶ事が出来た。
「あらあら、嬉しいこと言ってくれるねえ」
「兄貴ー、玉葱全部拾ったぞー…って、また女の人を口説いて…」
男の背後から声がして(私は口説かれていたのか!)、熊のような大男が近付いて来た。彼もまた金髪で、顔も目の前の男と良く似ていたが、こちらは優雅さよりも素朴さの方が勝っている。
「女性がいたら口説くのは男の礼儀だよ」
「はいはい。おばあさん、玉葱はこれで全部かい?」
膝を庇いながら玉葱の数を確認しようすると、それより前に男の方から近づいてきてくれたので、私は動かずに済んだ。
「ああ、全部あるよ。…あんたもいい男だねえ」
大男は目をぱちぱちさせた後、豪快に笑った。
「いやあ、まいったな!!」
さっきの男と反応まで似ている。そう言えば兄貴、と呼びかけていたから兄弟なのだろう。ということは優男が兄か。
「ん?おばあさん、膝を痛めてるのか?」
「そのようだよ。レディ、買い物籠をこちらに。私が持ちましょう。…マッシュ」
「よしきた。おばあさん、俺の背中に乗れよ。家まで送るから」
流石に私は慌てた。それは家まで来られることへの抵抗ではなく、人品卑しからぬ雰囲気の二人に面倒をかけてしまうことへの気後れだった。
「あらあら、そこまでしてもらうわけには」
「遠慮すんなって。俺鍛えてるからおばあさん一人くらい軽いもんだ」
「時には若輩者の言葉に甘えても良いと思いますよ、人生経験豊富なレディ」
弟は何でもないことのようにさらりと言ってのけ、兄は茶目っ気たっぷりにウィンクして、私が頷くのを待っているので。
「そうかい。それじゃ、お願いしようかね」
私は大人しく弟の背中におぶさった。
「夜が冷えるようになってきたな。少し前は涼しくて気持ち良かったのに」
「そうか?俺はこれくらいがちょうどいいぞ」
「…まあ、お前はそうだろうな」
「コルツ山に比べれば暖かい方だよ。おばあさん、こっちの道で合ってるかい?」
「ああ。この道を真っ直ぐ行って、突き当たりが私の家だよ」
コルツ山は武道家が修行のために訪れる事が多いと聞く。なるほど彼の頑丈な身体と清々しい振舞いは霊峰で鍛えた成果か。
しかし不思議な兄弟である。どうしてこうも懸け離れているのだろう。弟が武道家だとしたら武者修行の旅の途中なのだろうが、そうなると兄の優雅さが奇妙だった。身につけているマントは柔らかいのに丈夫そうな、見た事のない生地で作られており、立派な鎧で身体を守っている。先ほど手を取られた時には薔薇の花の良い香りがした。弟におぶって貰って高くなった視界から隣を見下ろせば、兄の流れるような金髪が見事に輝いていて、かなり良く手入れされているのが分かる。やんごとない身分であるのは確かだ。もし兄が旅行か何かの途中でこの町に立ちよっただけなのだとしたら、今度は弟の武道家風の外見が謎だった。
詮索したいのは山々だが、まあ、人の数だけ事情があるのが世の常だ。首を突っ込むのはよろしくないと判断して、心地よい背中の上で寝たふりをした。
「…さん、おばあさん」
「起きてください、眠り姫」
身体をそっと揺すられる感覚と囁くような声で我に返ると、そこは私の家の前だった。寝たふりをしていて本当に眠ってしまったらしい。
「お休みの邪魔をして申し訳ありません、レディ」
「いえいえ、送って貰って助かったよ」
またも兄に手を取られながら、弟の背中からゆっくりと降りた。膝はまだ痛むが、歩けない程ではない。
「何から何まですっかりお世話になって…」
「良いってことよ」
「お気になさらず」
兄弟は朗らかに答えて手を振りながら背中を向けて、もと来た道を帰っていく。
「ほんとうにありがとうねえ」
名残惜しさにもう一度礼を言うと、同時に振り向いて見惚れるような笑顔を返してきたので、年も忘れて赤面してしまった。夜道で二人に見えなかったのが幸いだ。
二人の姿が小さくなり、やがて見えなくなると、急に夢から覚めた気持ちになって、家の扉を開けた。
火を起こしてお湯が沸く頃には、胸を占めていた感傷はすっかり鳴りを潜めている。朝食の残りを晩御飯代わりにしてお茶を入れていると、今朝落ちているのを拾ってテーブルの上に置きっぱなしにしていた1ギル硬貨が目に付いた。何の気なしにそれを拾って眺めてみて、おや、と思った。
さっきの二枚目に良く似た肖像画が彫られていたけれど、まさかねえ。
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