「街で話してた男、誰だ?」
 飛空挺に戻った所を捕まえて尋ねると、は驚いて、目を丸くした。
 「きゅ、急に、何」
 「道具屋の前で声かけられてただろ。何だったんだ?」
 「ああ、あれ。見てたんだ」
 は納得がいったようで、肩から提げているバッグから紙切れを取りだした。
 「新しいお店の宣伝でチラシを配ってるんだって。ほら」
 見せてくれたのは武器屋のチラシだった。は一人で街に行く時は、例えどんなに治安の良い所でも護身用に短剣を下げていく。剣を持ち歩いている女の子なんてあまり居ないから、それで声を掛けられたのだろう。安心していると、が俺の顔を覗き込んだ。黒い瞳が悪戯っぽく輝いている。
 「安心した?」
 安心した、と口に出す代わりに、思い切り抱きしめた。


 ずっと好きだったと、晴れて恋人同士になった。
 レテ川の時から微妙に甘い空気が流れることはあったが(俺の勘違いかもしれない)、ナルシェで皆と合流してからは、俺はティナの探索に加わり、はナルシェに残ることになったから、お互いの関係がそれ以上進むことはなかった。はどうだか知らないけれど、既にを好きになっていて彼女なしの人生なんて考えられなくなっていた俺は、その事に焦れていた。はとても可愛いし、ちょっとぼんやりしたところはあるし、不器用でもあるし、多少我儘が過ぎる時もあるけれど、基本は素直で穏やかな性格だからナルシェでも可愛がられていたようで、他の男達に好意を寄せられる可能性は十分に考えられたからだ。おまけには押しに弱い所があるので、相手の情熱にほだされて好きでもないのに付き合ったりするかもしれない。その可能性を想像するだけで、はらわたが煮えくりかえった。
 そんなわけで不安に駆られた俺は、言葉は悪いが唾をつけておこうと思い、忙しそうに働いていたに声をかけて街に連れ出し、二人きりの状況を作って、良い雰囲気になった所で好きだと伝えた。
 の顔がだんだん赤くなる。それを隠すように頬を両手で押さえ、俯いた。
 良くない返事を想像した俺は慌てて、最初に出会った時から可愛いなと思っていたこと、見た目に反して腕が立つ所や素直な性格も魅力的だと思っていること、もっとを知りたいと思っていることを一生懸命説明して、ぜひ恋人になって欲しいと頼み込んだ。必死になった甲斐があって、は「うん、分かった……」と聞こえるか聞こえないかの小さい声で返事をしてくれたので、感極まりすぎて、その場で失神してしまった。
 今思えば、の押しに弱い性格を利用してその返事を引き出したのは俺じゃないか、と思わなくもない。
 まあいいか。他の男がそんな事をしようものなら、ただでは済まさないけれど。

 さて、付き合ったら付き合ったで、新たな問題が発生した。
 手の届く距離にが居る事が多くなり、仲間も気を利かせて俺たちを二人きりにさせてくれることも多くなったから、お互いの体に触れる機会が増えた。
 そのことにより、その、なんだ、欲望を押さえることが難しくなったのである。
 二人きりの時に抱きしめる事はある。キスもした。今ではお休みのキスをしてお互いの部屋に帰るのが習慣になっている。嫌われるのを恐れて出来なかった事が、したいと言えば、かなり照れながらもは受け入れてくれるようになった。他の男といるのを心配すれば、さっきのようにからかう素振りさえ見せて、そんな時は小悪魔、とか子猫、みたいな言葉がぴったりくる可愛さがある。
 だから、抱きたいと言えば、もしかしたら彼女は受け入れてくれるのではないかと、淡い期待をしていたのだが。
 楽観的な予想を覆す出来事が起きた。


 その日は俺もも飛空挺での待機組で、他の男性陣は皆出ていて留守だった。
 それで、俺は部屋に来たと二人で雑誌を見ていた。デートする場所を探していたのだ。
 楽しそうな場所が二か所あって、そのどちらにするかは迷っているようだったが、俺は全く別の事で頭がいっぱいだった。例によって、欲望を押さえるのに必死だったのだ。
 と言うのも、雑誌を見ている体勢が問題だった。ベッドに俺が座り、その上にが座るという、お膝抱っこをしていたのである。
 「どっちにしよう…。こっちのお店は高いけれど珍しいものが沢山ある…こっちは値段は手頃だけど他の町で似たようなお店があったような」
 唸りながらが頭を捻る度に、肩より下に少し伸びた黒い髪がさらりと揺れて、隙間から白いうなじがちらちらと見え隠れする。
 俺の位置から少しだけ見えた横顔は、ぷるぷるした唇の端がきゅっと上がって、長い睫毛で縁取られた目は細められていて、何だか嬉しそうだった。
 髪をかき上げて、うなじに舌を這わせたい。あの嬉しそうな顔に浮かぶ切ない表情を見てみたい。そんな欲求が押さえても押さえても湧き出して、既に危険な状態なのに。
 太ももの上に座るのお尻の感触。俺の太い腕で支えている、腰の細さ。とにかく彼女の全てに女、を感じて、余計にたまらない気分になっていた。
 「だけど珍しいものがいいものとは限らないし、似たようなお店の方が安心な気もする。マッシュはどっちがいい?」
が急に振り向いた。
 「へっ!?」
 驚いて、後ろにのけぞってしまった俺はバランスを崩して倒れそうになった。
 「ひゃっ」
 俺にもたれかかっていたも一緒に倒れそうになる。彼女の腰に回していた手を外して、とっさに彼女を庇おうと、その体をきつく抱きしめた。よく考えればベッドの上で倒れても痛くない筈なのに、相当慌てていたのだろう。
 どこをどうやってそういう体勢になったのか見当もつかないけれど、多分押し殺していた欲求が、無意識に出たのかもしれない。
 どういうことかと言うと。
 ベッドの上で、は仰向けになっていた。
 俺に抱きしめられたまま。
 どこをどう見ても、ベッドに押し倒した(にとってみれば押し倒された)状態だった。
 はベッドの上でぴくりとも動かなかった。抱きしめたままだったので顔は見えないけれど、きっと目を丸くしたまま、瞬きも忘れているのだろうと思った。
 俺も全く同じ状態だったからだ。ただ思考まで停止しているわけではなく、頭は既に次の事を考えていた。
 ごめんと言って離れようか。それとも抱きたいと言ってみようか、どうしようか、と。
 時計の音だけが響く静かな部屋の中で、決意を固めた俺は、少しだけ体を起こして、思ったとおり目をまんまるにした顔の、ぽかんと開きっぱなしだった唇にキスをした。
 小さな体が強張るのに気付かないふりをして、角度を変えて何度もキスをした。の上に体重をかけて、逃げられないようにした。やがてそれだけでは飽き足らなくなって、小ぶりな胸にそっと手を触れた。
 でも、それがいけなかった。
 「わああああ!」
 「うわあああっ!」
 耳元で甲高い叫び声を上げられて思わず動きを止めた瞬間には、は俺の腕の中からするりと抜け出していた。ベッドから離れ、自分で自分を抱きしめながら、泣きそうな顔で俺を見ている。
 「あ、……」
 びくっと体を震わせたは、振り向きもせずに出て行ってしまった。


 それから俺たちは別行動が多くなり、顔を合わせる事が減った。
 謝りたいとは思っていたけれど、あの時の泣きそうな顔を思い出すと声をかけられなかった。このままに嫌われたらどうしようと思うのに、更に嫌われるのを恐れて何も出来ない。
 これではいけないと思いながら何もせずにいたある日、唐突にに声を掛けられた。


 「マッシュ」
 出発の準備をしていると、小さな声に呼びとめられて振り向いた。待機組のが様子を伺うようにこちらを見ていた。
 壁から顔半分だけ覗かせている。その仕草が可愛くて、思わず笑顔になってしまった。それが良かったのか壁の向こうからそろそろと出てきて俺の前に立った。周りをきょろきょろしながら「こっち」と腰紐を引っ張り、どこかに連れて行こうとする。何だろうと思いながら大人しく付いて行くと、は薄暗い誰もいない部屋に入った。続いて俺が入ったのを確認すると、また様子を伺いながら静かにドアを閉めて、久しぶりの二人きりになった。
 「、」
 「あの、マ、マッシュ!」
 呼び掛けた声をかき消すように、が口を開いた。遮っておきながら「あの、」とか「その、」とか繰り返すばかりで話を始めようとしない。言いたい内容の見当はついていた。こないだの事だ。
 もじもじしているは可愛くて、もう少し見ていたかったのだけど、出発の時間が迫っている。俺はの目線まで顔を下げると、開きかけては閉じる唇にキスをした。
 「!」
 途端には真っ赤になる。久しぶりのキスを拒まれなかったのが嬉しかった。
 「こないだはごめんな」
 「へっ!?あ、あの、ううん、わ、わたしこそ」
 ごめんなさい…と小さく言って、は俺の目を見た。やっと言いたい事を言う、と決めたようだった。
 「わたしね、マッシュのこと、大好き」
 「うん」
 「でも、こないだみたいのは、まだ怖い」
 「うん」
 そうだろうな、あんなに固まっていたから。
 俺はその後に続く言葉を想像する。怖いから二度としないで欲しいとか、ああいうことはしたくないとか。のためだから我慢したいのに、好きだから我慢出来なくなってしまった。多分それを伝えたら、益々怖がるんだろうな。
 ん?まだ?
 「わたし、もっとゆっくりマッシュの事を知っていきたい。最初にするのは、マ、マッシュがいいから」
 だから、もう少し待ってて。
 続けられた言葉は予想に反して、時間はかかるが、気持ちを受け入れようとしてくれるものだった。
 「あ……うん……」
 「……面倒臭いね、わたし。ごめん。旅、気をつけてね」
 「!」
部屋を出て行こうとするに、俺は慌てて声をかけた。
 「俺、待つよ。がいいと思えるまで」
 は振り向いて「ありがとう」と言った。俺の大好きな照れた笑顔だった。抱きしめてキスをしようとして、慌ててその衝動を押さえた。たった今もっとゆっくり、と言われたばかりだ。
 「、今、抱きしめていいか?」
 「う、ん」
 「キスもしていい?」
 「……うん」
 「それ以上は?」
 「………まだ」
 「分かった。じゃあ、そこまでで我慢するよ」
 抱きしめて、おでこにキスを一つ落とした後、俺はを見送った。
 未来に対する期待と、それまでの苦悩の日々を想像しながら。

 キスもして抱き合って、その先に進めないのはかなりの拷問だけど。
 本当は待てないくらい好きだけど。というか好きだから、待てないのだけど。
 それはまだ、言わない方がいいだろう。


戻る