最近、エドガーの様子がおかしい。
 わたしに対して、腹を立てているようなのだ。
 その事に気付いているのはわたしだけだ。彼はわたしにも普通に話しかけてくるからだ…皆の前では。
 だけど二人きりになると途端に静かになる。話しかけても「ああ」とか「そうだね」と短く返事するだけで(それも適当にあしらうように)こちらを見ようともしない。普段は構われると逃げているくせに、つっけんどんにされると急に不安になってきて、話しかけずにはいられなかった。エドガーが腹を立てるなんて今まで見た事がなくて、わたしは何か余程の事をしでかしたんだと思ったのだ。
 ただ、それが何なのか、全く分からなかった。
 一番疑わしいのはタイミングから言って数日前の買い物だ。そう思って記憶を掘り起こすけれど、買い物は台所で使っている食糧の補充。同伴者はマッシュ。特に問題もなく帰って来た。エドガーが不機嫌になる理由なんてどこにもない。
 思いきって二人の時に、「わたし、何かした?」と聞いてみた。
 「急に何のことかな?」
 「え…だってエドガー、怒っているみたいだから」
 「そんな事は無いよ。だけどそう見えるのなら、私も気をつけるとしよう」
 そう言ってにっこり笑って、結局エドガーは冷たいままだった。
 段々わたしは落ち着かない気分になっていった。わたしには笑いかけもしないのに、リルムに愛想良くしているエドガーを見ると胸が苦しくなった。こちらから近づくとすっと離れて、セリスに近付いて楽しそうに会話に加わるエドガーの背中を目で追うだけで泣きそうになった。敵からの攻撃を受けた時にとっさに庇ってくれたエドガーにお礼を言ったら、それを無視してティナの怪我を回復しに行ってしまった。その後ティナに優しく話しかけているのを見ると、エドガーだけでなくティナにまで腹を立てている自分がいた。
 自分でも自分の事が分からなくなってしまった。構われるのが嫌だったのだから、これは喜んでもいい筈なのに。


 「というわけなの。わたし、何かやっちゃったのかな」
 途方に暮れてマッシュに相談すると「気のせいじゃないか?」という答えが返って来た。
 「仮にが何かやっちまっても、兄貴だったらその場で言うだろ?が傷つかないように、上手く言葉を選んでさ」
 「うーん…」
 「黙ってて後から不機嫌になるようなタイプじゃないぞ、兄貴は」
 「確かに、それはそうなんだけど…」
 絶対に気のせいなんかじゃない。
 納得のいかないわたしにマッシュは「まあそんなに心配なら、俺からもそれとなく兄貴に聞いてみるよ」と言ってくれた。それで少し安心したのだけど、それもまずかったみたいだ。


 「
 振り向かなくても誰の声かすぐに分かる。久しぶりに声を掛けられて、胸が痛いくらいに高鳴った。
 「なに、エドガー」
 返事した声が上ずっている。いつもどおりに振舞おうとしても顔が綻んでしまうのを押さえられない。エドガーに名前を呼ばれることが、こんなにも心を動かされることだなんて知らなかった。
 振り向いて久々に正面から見たエドガーは、だけど想像していた笑顔で立ってはいなかった。
 無表情で無感動な、冷酷、と言っても良いような顔でわたしを見ている。驚いて後退ると「君は少し周りに頼りすぎる癖があるね」と、苛立ちを含んだ言葉をぶつけられた。
 「きゅ、急に、なに」
 「マッシュの事だよ」
 「マッシュ」
 「私の不機嫌の理由を探らせただろう」
 探らせたつもりなんかない。相談しただけだ。そう言うと「相談か。物は言い様だな」と、その表情に似つかわしい冷たい声が降ってきて、また打ちのめされた。
 心も凍りそうな冷たさが体の熱まで奪っていくようで、一人でガタガタ震えていると、はあ、と呆れるようなため息をつかれた。
 「、後で…そうだな、夕食の後、私の部屋に来なさい」
 「どうして?」
 また無表情で見つめられて、恐怖に震えていたわたしは、ただ黙って頷くしかできなかった。

 不安でいっぱいの午後を過ごした後、よく味の分からない夕食を食べ終わってしまい、重たい体を引きずりながらエドガーの部屋に向かった。
 旅のメンバーの中で、エドガーだけが個室を持っている。旅をしているからと言って王様の仕事に休みは無いから、彼は飛空挺に書類を持ち込んで、夜遅くまでそれに目を通している事が多い。
 一方でマッシュは長い修行生活の習慣で早寝早起きだ。セッツァーも次の日に飛空挺を動かす時は早く寝る。最初は同じ部屋で寝泊まりをしていた男性陣だったけれど、エドガーは仕事がしにくいし、マッシュとセッツァーはエドガーがつけているランプが明るくて眠れない。だからお互いのためにとエドガーが個室を希望して、セッツァーがそれを許可して、手頃な部屋を仕事部屋兼時々寝室として使うようになったのだ。ちなみにどうしてわたしがこんなに男子部屋の事情に詳しいのかと言うと、ロックが勝手に教えてくれたからだ。(その代わりに女子部屋の事情を教えてくれと言われたので、当たり障りのない範囲で答えた。そんな事聞いて何するのあの人)
 とにかくエドガーが「部屋」と言うときはこの個室の事で、つまりは不機嫌な彼と二人きりになるというわけだ。
 恐る恐るノックすると「入りなさい」とあの冷ややかな声が聞こえる。物音をたてても怒られそうな気がして静かに入ると、わたしの格好を見るなりエドガーはその整った顔をしかめた。
 「風呂には入っていないのか」
 「だって、夕食の後に来るようにって、」
 「それなら風呂に入ってから来なさい。あと、皆にはここに来ることは言わないように」
 「どうして?」
 「……」
 「はい……」
 自分が夕食後に来るように言ったくせに、と反論できる雰囲気ではなく、大人しく引き下がる。そうしてお風呂から上がったわたしは女の子たちに、喉が渇いたから何か飲んでくる、ついでに甲板で髪を乾かしてくると言って、またエドガーの部屋に向かった。
 ノックすると「どうぞ」と声がする。命令口調じゃなかった、ただそれだけでほっとした。
 エドガーは机に向かって仕事の続きをしていた。言われたとおりにお風呂に入って来たからか、少しだけ機嫌を直したようだ。手招きされて目の前まで歩いていくと、下から上まで何度も視線を往復させながら丹念に見つめられて、違和感を感じた。
 口の端が少し上がった、普通にしていても優しげに見える顔も、涼やかな青なのに不思議に温かさを感じるその瞳も、今のエドガーには無い。
 淡々とした表情なのに興奮しているように見えた。青い瞳には妙にぎらぎらした光が浮かんでいる。彼の喉仏が唾をごくりと呑み込んで上下した。
 いつものエドガーじゃない。
 逃げようとして、わたしは体のバランスを崩した。そうなるのを予想していたように難無く腕を掴まれ阻止されたのだ。そのまま腕を高く持ちあげられて体が傾き、おぼつかなくなった足元に目をやったとたん、もう片方の手が乱暴にわたしの顔を持ちあげた。ぎらぎらした瞳と目が合う。
 「逃がさないよ」
 今のエドガーは、例えるなら、獲物を前にした肉食獣だった。


 恐怖で動けなくなっているわたしを満足そうに見て、エドガーはやっと持ちあげていた腕を下ろした。解放してくれるのかと抱いた淡い期待は見事に裏切られ、腕を引きずられてベッドに連れて行かれた。最悪の状況が浮かんで必死で踏ん張ったけれど力では到底敵わない。叫ぼうとしたけど、口は叫び方を忘れたみたいに動かなかった。
 その時。
 部屋の外で誰かの話し声がした。
 全ての動作をエドガーは無言で行っていたし、わたしも声が出なかったから、すぐに声の主が誰か聞き取れた。誰かと話しながら部屋に近付いている。
 仲間のうちで誰よりもエドガーを信じているから、ドアの向こうでこんな事が行われているなんて思ったこともないであろう、その楽しげな声。
 マッシュだ。
 「マッ…んんっ!」
 最後の力を振り絞ってようやく声が出たのに、エドガーの空いている手がわたしの口を塞いだ。叫ぼうともがいている間にマッシュの声が近付き、ドアの前を通過し、また遠ざかっていく。エドガーがこの部屋にいる間は、仕事中の彼を気遣って殆どみんなここを通らない。マッシュがここを通りかかるのだって稀だ。助かる希望が途絶えてしまって、涙はさらに顔をぐしゃぐしゃにした。
 絶望ですっかり力が抜けたわたしをエドガーは、ベッドに押し倒した。熱い吐息が耳にかかる。ぞくりとして身を縮め、思わず顔を背けた。
 「…なら、」
 「え?」
 「もしマッシュがこうしてきたら、君はどうしていた?」
 唐突に出てきた、さっき部屋の前を通り過ぎた仲間の、そして彼の弟の名前。こんな時に彼の名前にどんな意味があるのだろう。エドガーが補足するように続ける。
 「あいつがこうしてきたら、君は素直に受け入れたんだろう?」
 補足された筈なのに余計に意味が分からない。相手が誰だろうと、例えマッシュだろうと、こんな事をされたら間違いなく抵抗する。逃げられるかどうかは別問題だけど。
 「う、受け入れるわけない…」
 「そうかな?」
 「そうだよ…そもそもマッシュはそんな人じゃないし…万が一そんな事になったら本気で抵抗するよ」
 「嘘だ」
 強い否定だった。確信に満ちた言い方だった。その、わたしの心なんて分かりきっている、みたいな言い方にかちんときて背けた顔を戻した。反論しようとしたのだ。
 そして…わたしは怒りを忘れた。
 感情をむき出しにしたエドガーがそこにいた。
 「マッシュなら受け入れた筈だ。君が一番仲がいいのはマッシュ。一緒に出かけるのもマッシュ。困った時に頼るのもマッシュ。マッシュ、マッシュ、マッシュ。君の頭はあいつの事ばかり。我慢していたが、もう限界だ」
 こんなエドガーを見るのは初めてだった。怒りとか悔しさとか憎しみとか、激しい負の感情を隠すことなくさらけ出してわたしを睨みつけている。険しい顔のまま重ねてきた唇から乱暴に侵入した舌で、わたしの舌を絡め取り、口内を犯した。
 「好きなんだろう、あいつの事が」
 噛みつくようなキスでお互いに息を荒くした後も、エドガーの怒りは収まらなかった。
 「俺には自分から近付こうともしないくせに、マッシュには気安く近づいて」
 唇が頬をなぞりながら下がり、首筋をぺろりと舐める。
 「俺の言葉はいつも疑うくせに、マッシュの事なら何でも信用する。それに、」
 腕を掴んでいた手が、パジャマの中に入り込み、緩慢な動作で腰を撫でた。
 「言葉を尽くして口説いても、怖がらせないように触れても、戦いのときだってそうだ、君を最優先に守っても、君は俺の気持ちに気付きもしない」
 もう片方の手だけで、器用にパジャマのボタンを外していった。
 「俺が君を想っている間、君が考えているのはマッシュの事なんだろうな。ああ、でも」
 上を脱がせた後は、わたしの腰をひょいと抱えて、パジャマのズボンをするすると脱がせていく。
 「この数日間は楽しかったよ。ほんの少し冷たくしただけで、面白いように君から近付いてくるのだから」
 下着姿になったわたしを満足そうに見下ろして、くくっ、と喉の奥で嬉しそうに、エドガーは笑った。
 独白を聞いているうちに、段々わたしは落ち着いて来た。頭が冷えると彼の不機嫌の理由が分かった。
 「君が悪い。いつまでも俺が優しいままだと思っている、君が」


 彼は穏やかで快活で、怒っている時ですら、感情的にならないよう自分を押さえているような所があって。
 聡明で勇気もあり、責任感も人より強い。人を纏める力やも引き付ける魅力もある。彼の持っている全てが、皆に好かれたり尊敬されたりするように出来ている人だと思っていた。
 それなのに今のエドガーは、わたしのために我を忘れて、きっとみんなの前ではうまく隠してきた激しい衝動を、そのままぶつけてきて。
 恐怖さえ感じる行動に、じわじわとこみ上げてきたのは喜びだった。
 こんな彼を見た事がある人は、わたし以外、そんなにいないに違いない。


  「エドガー」
 まだ低く笑い続けていたエドガーは、わたしの静かな声に、意外そうな顔でこちらを見た。
 「エドガー、誤解してる」
 「…何が?」
 「最初から最後まで、全部」
 意外を通り越してあっけに取られている。
 「確かにマッシュの事は好きだけど、それは仲間としてだよ。エドガーが思っているのとは違う」
 整った顔が驚きで固まっている。嘘だ、とでも言いたげに動いた唇を人差し指でそっと押さえて、少し身を起こした。
 「でもエドガーの事は、もっと違う風に好き」
 彼の首に手を回して青いリボンを解いた。長い金髪が肩から滑り落ちて、急に男の人の色気が増した気がした。そのぽかんと開いた口に、そっと口づけた。唇はぴくりとも動かなかった。
 「エドガーの全部が好き」
 最後に、もうどうなっても良い、という覚悟をして。
 「何をされても良いくらい、エドガーが好きよ」

 エドガーはまじまじとわたしを見た。
 「自分が何を言ってるのか分かっているのか」
 「分かってるよ」
 わざわざ確認してくるのがじれったい。こんな恰好でそんな事を言って、どうなるか分からないほど馬鹿じゃないのに。
 焦れて、もう一度キスをした。流石にわたしの意思は伝わったようだ。ふわりと抱きしめられて、さっきまでの乱暴さが嘘のように、ベッドにそっと押し倒された。
 不機嫌がすっかり治っている。わたしの言葉や行為で彼の感情が大きく変化するのが嬉しくて笑ってしまった。エドガーも笑い返して、またわたしをじろじろと見る。
 「君は寒そうだ」
 「自分が脱がせたくせに」
 「ああ、そうだった」
 楽しそうに答えてエドガーは、「で、どうして欲しい?」と尋ねてきた。
 「寒いから温めて欲しいな」
 「大胆だね」
 元々そうするつもりだったくせに、と言いかけた唇は、唇で塞がれて。
 「もちろん、一晩かけて温めてあげるよ」
 エドガーは言葉通り、わたしの冷えた体を抱きしめた。気持ち良さで目を閉じそうになるのを何とか踏みとどまる。目眩がするほどの幸せな時間を堪能する前に、しないといけない事があった。
 「ね、エドガー」
 「ん?」
 「わたし、優しいエドガーが好きだったけど、怖いエドガーも好きかも。意地悪なのも乱暴なのも、たまにはいいかも」
 「光栄だな」
 「でも、他の人にはそういう所、見せないで。わたしだけにしてね」
 エドガーは目をぱちくりさせた。だけどすぐに唇をぺろりと舐めて「ああ」と掠れた声で答えた後、また、初めて見る顔をした。
 熱っぽくわたしを見つめる、恋する男の人の顔だった。





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