眠れない。
部屋は皆の寝息が聞こえるほど静かだ。廊下の向こうも同じく、物音一つ聞こえない。真夜中なのだから、当然だ。
明日は地球の未来を左右する、それはそれは大事な一日になる。だから皆、早く寝て明日に備えている。それなのにわたしだけ、こうして眠れずにいた。何度も寝返りを打ち、羊を数え、無理矢理寝ようと目を閉じてじっとしている。日中はそれなりに動いて疲れている筈だ。なのに、不思議と目が冴えていく。
こうなったら誰か起こしてスリプルをかけて貰って……と思ったけれど、明日に備えてぐっすり寝ている他の子達を起こすのは申し訳なくてやめた。それに情けない所を見せたくなかった。きっと緊張や不安や恐怖で眠れないのは、わたしだけなのだろうから。
自分が情けなくなって、また何とかして眠ろうと目を閉じた時、部屋の外の廊下が軋む音がした。気のせいかと思ったけれどそうではなかった。耳を澄ますとその音は規則正しい音を立てながら部屋の前を横切り、小さくなっていく。間違いない、人が歩いている音だ。誰かが足音を忍ばせて、談話室に向かっている。
わたしの他にも眠れない人がいる。静かな足音に背中を押された気がして、わたしはむくりと起き上がった。皆を起こさないようにドアを開け、さっきの誰かと同じように足音を忍ばせて談話室に向かった。
「あれっ」
「おっ」
談話室ではマッシュが、思い詰めたような顔でソファーに座っていた。わたしの姿を見ると一瞬目を丸くしたけれど、すぐに「も眠れないのか?」と小声で話しかけてくる。こんな時間に起きていながら否定する理由はない。素直に頷くとマッシュは「俺も。何だか変に緊張しちまってさ」と困ったように頭を掻いた。笑い返しながら、内心とても驚いていた。緊張や不安を撥ね除けるくらいの力と心の強さを持った人、それがわたしの抱いているマッシュ像だ。その彼が緊張して眠れないだなんて。けれど臆病なわたしと勇敢なマッシュとでは眠れない理由も違うのだろうから、一緒くたにするのは失礼かもしれない。だから代わりに自分の心情を吐露した。
「わたしも緊張して……明日が来るのが嫌で眠れなかった」
「だよな」
「だって明日で全部決まるんだよ。きっとケフカに勝てるって信じたいけど、勝てないかもしれない」
「そんなことはないさ、俺達だって強くなったし」
「世界を救うどころか何も変わらないかもしれない。全然かなわなくて、逃げ帰るかもしれない」
嫌な想像を言葉にするのは好きではない。現実になりそうで怖いからだ。それなのに、口だけ何かに乗っ取られたように不吉な想像を並べ立てる。
「もしかしたら変わらないのはいい方で、世界がますます酷くなったら? 戦うって事はわたし達だって無傷じゃすまないよね。もし明日、仲間の誰かが死んでしまったら? その誰かは、もしかするとわたし――」
「、その辺にしとけ」
マッシュが止めてくれなかったら、とんでもないことを口にしてしまう所だった。
「ん」
ソファーの端に詰めたマッシュが、隣をぽんぽんと叩いた。まあ座りなよ、ということだろう。こんな重い気持ちを引きずったまま部屋に帰りたくなかったので、促されるまま座った。一人で座るには大きなソファーはマッシュと座るとやけに小さくて、どうしても腕が当たってしまう。けれど当たったままの腕から伝わる体温が温かくて、重く冷たい気分が少し軽くなった。
「あんまり不吉なことは言わない方がいいぞ。って、その通りになっちまいそうで俺が嫌なんだけどさ」
「ごめん。どうしても悪い想像が止まらなくて」
「それに、俺は師匠から新しくて強力な技をいくつも教わった。は剣の腕が上がってるだけじゃなくて、回復魔法もたくさん覚えてる。皆で力を合わせて復活したドラゴン達を全て倒した。デスゲイズも、フンババも、カイエンの夢の中にいる魔物まで倒しちまった。その間ずっとあんな塔に閉じこもっていたケフカになんか、負けるわけがない」
一つ一つ、ゆっくりと、言葉を句切り、マッシュは話す。静かな声は、いつ死んでもおかしくなかった戦いの数々を思い出させた。聞いていると胸の奥の恐怖が自信に変わっていく。そうだ、わたしだってあの頃よりも強くなった。皆もそうだ。
「そうだ、うん、そうだよね。ていうかどんなに怖くたって、負けるわけにはいかないし。じゃあ勝つしかない!」
「、声でかい」
「あっ」
慌てて口を押さえ、誰かが文句を言いに来やしないかと耳を澄ました。幸い皆はぐっすり眠っているらしく、誰かが乗り込んでくることはなかった。
「マッシュ、ありがとう。おかげで戦う勇気が出たよ」
「そうか。じゃあ明日、頑張ろうな」
うん、と力強く頷いて笑って見せると、マッシュも眩しそうにしながら小さく笑った。
「本当に、マッシュにはいくらお礼を言っても言い足りないよ。出会った時から、ずっとそう」
「何のことだい?」
故郷を逃げるように飛び出したわたしが今こうしてたくましく生きている理由。それはひとえに、マッシュと出会えたからだ。
たまたまレテ川で助けたマッシュがとてもいい人で(これでマッシュが悪人なら寝込みを襲われるか金目の物を盗まれるなどして、早々に生きる気力を失っていたことだろう)、誘われるままにリターナーに入ることを承諾したことから、まずは頼もしい仲間が増えて。
これからの目的も、旅に必要な知識も、未知の場所で行動する勇気も教えてもらい、信じられる仲間とたくさん引き合わせてくれた。魔法というおとぎ話でしか聞いたことがない力を使えるようになったり、ガストラ帝国なんて大きな力と戦う事になったり、世界が崩壊して大変なことになったり、良くも悪くも色んな経験をした。町から一歩も出たことがない小娘が、世界崩壊の元凶の元に乗り込むというところまで強くなった。わたしが今ここにいるのは、あの時マッシュに出会えたからだ。
「だから、マッシュはわたしの恩人なの。本当にありがとう」
「いや……そんな、大げさじゃないか?」
「大げさじゃないよ! これだけ言ってもまだ足りない!」
鼻息を荒くして主張すると、マッシュは「うーん、俺は大した事はしてねえんだけど……そこまで言うなら、そういうことにしておくか」と頭を掻いた。この人は自分が人一人の人生を大きく、それもいい方に変えた事を、ここまで言ってもあまり分かっていないらしい。
大らかなところも彼の魅力の一つではあるのだけど、こればかりはどうしても分かって欲しい。一体どうやって伝えたものか考えていると、「そう言えば、に聞きたいことがあるんだけどさ」と、マッシュが話題を変えた。
「聞きたいこと?」
「おう」
マッシュは体を少しずらし、わたしと正面から見つめ合った。
「は、この旅が終わったら、どうするんだ?」
「えっ」
旅が終わったらどうするか。少し前まではその事ばかり考えていた。こうなったらいいなという漠然とした、けれど確かな願いがあったからだ。けれど今は、極力考えないようにしている。その願いが叶わないことを知ったばかりだから。
かなえたかった夢を忘れるために、それ以外の未来を考えるようにしてみれば、浮かんだ選択肢はいくつかあった。
まずはカイエンさんとドマに行くという道だ。すんでの所でドマを助けられなかった後悔が、未だに胸の内でくすぶっている。あの時助けられなかった分、せめてかつての美しい国を取り戻す手伝いが出来ればいいと思った。それにわたしにとってカイエンさんは父親、ガウ君は弟のようなものだ。濃い時間を一緒に過ごしてきた二人と別れるなんて、出来そうにない。
などと思っていたのだけど、モブリズでティナとディーン君が身重のカタリーナさんや子供達の世話で忙しそうなのを見て、考えが変わってしまった。親を恋しがって泣く子や寂しさを乱暴な行動で紛らせる子、無理に明るく振る舞うけなげな子、そういう子全ての心に寄り添うには、二人とも忙しすぎる。自分が子ども達の心を救えるなんて思わないけれど、魔物から村を守ったり畑仕事や料理をしたりは出来るから、子供達が信頼する大人の時間を作るくらいは出来るはずだ。
そんな風に迷っていたある日、立ち寄ったナルシェの町の様子が一変しているのにショックを受けた。かつてのこの地はもっと活気があり、町の人たちは警戒心が強く、でも一度信頼した相手にはどこまでも親切だった。とても寒い町なのに、思い出の中のナルシェはいつも温かかった。
それなのにナルシェには今、殆ど人がいない。町の中にまで魔物が入ってきて危険なので、皆、余所に引っ越したらしい。魔物に襲われて亡くなった人も大勢いたという。
でも希望の持てる話も聞いた。ガードの人たちが何人か残っていて、必死に町を守っているそうだ。その甲斐あってナルシェは何とかまだ、町としての体を保っている。お世話になった町のために、その中の一人に加えて貰い、戦うという生き方もある。
旅を始めたあの頃と違い、嬉しいことにわたしにはそれなりに行く当てがあった。ただどの場合も一人で漠然と考えている段階で、希望を伝えたところで相手に受け入れて貰えるのかどうか、そしてわたし自身、本当にその地で生きていく覚悟があるのか分からない。
「実は、まだ決めてないんだ。どこに行きたいのか、何をしたいのか、自分でも分からなくて」
「そっか。……そっか」
マッシュが何故か嬉しそうに笑う。マッシュの嬉しそうな顔は、見ているだけでこちらも幸せになるのだけど、今は胸の痛みが鈍く強くなっていくだけだ。不自然に思われないよう笑い返し、曖昧に頷いた。
「うん……」
「どうした? まだ何か悩んでるのか?」
実は誰にも言ったことはないのだけど、明日を迎えたくない理由はもう一つあった。
戦いに勝ったとき。それは同時に旅の終わりを意味する。
大切な親友達、家族のような人たち、旅に出なければ一生出会わなかったであろう故郷も年齢も職業も違う、けれど大事な人達、それに。
「まあ、まずは明日、戦いに勝つことに集中、だよな」
この人――マッシュと、離ればなれになる、ということだ。
出会った時から、ずっとマッシュは側にいた。朝起きたら挨拶し、出かけるときには見送ってくれて、帰ってくると笑顔で出迎えてくれた。逆にマッシュが出かけて帰ってくるときも同じように見送り、戻ってくると出迎えた。悩んでいるときに相談したり、逆に相談されたり、時には意見がぶつかり合って言い争うこともあった。けれど自然に仲直りするのもいつものことだった。何故かいつまでも続くと思い込んでいた日常は、ケフカとの戦いが近づくにつれて、いつか終わる日が来るのだと気づいてしまった。それに、自分が誰よりも離れたくないのはマッシュだということにも。
いつの間にか、戦いが終わっても、マッシュと一緒に旅が出来たらいいな、と考えるようになった。世界のあちこちで困っている人を助けて、また旅をして、別の地で困っている人を助けて。決して楽な旅ではないと思う。けれどマッシュと一緒なら、どこにでも行ける気がしていた。
けれど、マッシュが他の皆と「旅が終わったらどうするか」という話をしているのを聞いてしまった。そのときマッシュは「魔物の攻撃や世界崩壊の影響で荒れている地域も多いから、世界中を旅して困っている地域や人を助けるつもりだ。一人旅は寂しくなるが、何とかなるだろ」と言っていた。物陰で話を聞き、酷く落ち込んだ時の胸の痛みをまだ覚えている。そうか、マッシュは一人で旅するつもりなんだ、と。
ずっと一緒にいたのだから、もっと早くこの気持ちに気づけば良かった。そして一緒にいたいと伝えれば良かったのだ。その時に受け入れられても拒まれても、きっと今頃こんな後悔をすることなく、明日の戦いに覚悟を決める事が出来ていた筈なのに。
「……マッシュは、この戦いが終わったら、一人で旅に出るんでしょ?」
「ああ。ってそれ、誰に聞いたんだ? にはまだ話してなかった筈だが」
「こないだ談話室で話してるのが聞こえたから。マッシュはもう、これからのことを決めてるんだね」
「まあ、一応」
「じゃあ明日世界が平和になったら、マッシュは旅に出ちゃうんだ」
認めたくない現実を、声を震わせる事なくさらりと言えた。変に思われないように明るい声を出す事も出来た。明日の戦いと、その先を見据えているマッシュの邪魔になるくらいなら、気持ちを隠して振る舞うくらい我慢できる。我慢の甲斐あって、マッシュは「そういうことになるな」と明るい声で相づちを打った。
「じゃあ、こうやって話すのは、これが最後――」
「あのさ、」
マッシュが唐突に、わたしの手を取った。びっくりしてマッシュを見上げると、やけに晴れやかな顔で一人頷いている。以前にもこんなマッシュを見たことがある。確かずっと昔、行く当てがないわたしをリターナーに誘ってくれた時だ。忘れるはずがない。あれがわたしの人生が変わった瞬間なのだから。
「どこに行くか決めていないんなら、一緒に旅に出ないか?」
「へ?」
昔のことを思い出していたから、マッシュの言葉の意味を理解するのに、少し――多分何秒かだと思うけれど――時間がかかった。
ようやく言葉の意味を理解したら、今度はその言葉を疑った。いくらなんでも都合が良すぎる。それくらいに、マッシュの言葉はわたしが欲しがっていたものだった。
「……わたし、と?」
「ああ。さえよければの話だが」
「でも、前に聞いたときは一人で旅するって」
「世界中旅して人助けだなんて、大変だし危険だろ。だから誘っていいのかどうか、迷ってた。俺の都合を押しつけるような気がしてさ」
「わたしで、いいの?」
「でいいんじゃない。がいいんだ。これからも、君と一緒にいたい」
夢のようだった。けれど真夜中の談話室の冷たい空気とマッシュの手の熱さは、これが夢ではないのだと教えていた。最終決戦に挑むことになってから数日間、頭にかかっていた靄のようなものがすっきりと晴れていく。心にのしかかっていた鉛のような重さまで、どこかに消えてしまった。軽くなった心は口まで軽くした。興奮してしまい、わたしは真夜中だと言うことをまた忘れ、また大声を上げてしまった。
「わたしも、マッシュと一緒に旅したい。戦いが終わってからも、一緒にいたい!」
「、声! しーっ」
「あっ」
慌てて口を押さえて時計を見ると、2時半を回ったところだった。もう寝ないと明日が辛い。眠れるだろうか、と思った途端あくびが出た。心配事がなくなって、気が緩んだみたいだ。
「そろそろ戻ろうか。寝ないと明日に差し支える」
「そうだね」
同時にあくびをして、同時にソファーから立ち上がった。談話室のドアをマッシュが開けて、先にわたしを通してくれた。大らかで優しくて、さりげないところで紳士的な人だ。この人とこれからもずっと一緒にいられるなんて、多分わたしは世界で一番幸せな人間に違いない。
来たときと同じように、足音を忍ばせて寝室に戻る。振り向くとマッシュが、にこりと笑って「お休み、」と耳元で囁く。急に縮まった距離に赤くなった顔は、きっとマッシュには見えていないはずだ。
「お、お休み、マッシュ」
「ああ、また明日」
「うん」
明日も明後日もその後もずっと、この人と一緒にいるために。
わたしは明日、全力で立ち向かう。
が扉の向こうに消えた後も寝室の前に立っていた俺は、また足音を忍ばせて、自分の寝室に戻った。
「ありゃあ、多分気づいてねえなあ」
本当に、これからも一緒に旅するだけだと思ってるんだろうなあ。俺なりにまっすぐに、気持ちを伝えたつもりだったのだが。
いやいや相手はだ、素直だが素直である故に、言葉の裏にある意味を読み取るのは苦手な子だ。あんな遠回しな言葉で気づくわけがないか、と思い直す。
「まあ、そのうち伝えればいいか」
いくらでも時間はある。戦いが終わったら、ずっと一緒に旅をするのだから。
そのために俺は明日、全力で立ち向かう。
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