「うわっ」
 何気なく廊下の角を曲がろうとしていたわたしは、思わず声を上げて慌てて身を隠した。
 もはや家と言ってもいいくらいに住み慣れた飛空挺の歩き慣れた廊下だ。警戒する必要も隠れる必要も本来なら、無い。それでもこの場合、隠れるしかなかった。
「っ……んっ……!」
 廊下の角を曲がった先でロックとセリスが濃厚なキスをしていたら、誰だってそうするはずだ。


 二人が好き合っているのは皆が知っている。キスをしたことも、男性陣はどうだか知らないけれど、セリス本人から打ち明けられた女性陣は皆知っている。実はその先まで関係が進んでいることも、セリス本人からこっそり打ち明けられたわたしは知っている。まあとにかく、二人は紛れもなく深い関係にあるということだ。
 とは言っても……と、わたしはそっと二人を覗き見、ため息をついた。
「ちょ……ロック……!」
「……っ」
 二人はわたしの気配に気づきもせず、一心不乱にキスを繰り返している。唇を角度を変えながら重ねて、離して、また重ねて。二人が舌を絡めるたびに、辺りの空気が熱く湿り気を帯びていくようだ。立ち去ることも見続けることも出来ず、また壁に隠れた。
 何があったか知らないけれど、誰が通るか分からない廊下で盛り上がるのはどうなんだろう。下手したらそのまま行くところまで行ってしまいそうだ。止めた方がいいのだろうか。でも邪魔だって文句を言われるかも知れない。いや、そもそもこんな所で盛り上がるのがいけないよね!実際わたし、今こんなに気まずい思いで一杯だし!
 わたしが密かに悶々としている事なんか知らず、二人は声にならない声を漏らしながらキスを続けていたけれど、急に静かになった。
 あ、やっと終わった、これで通れる。ほっとして様子を伺うと、ロックがセリスの肩を抱いて、部屋の中に入っていくのが見えた。とうとう我慢できなくなって、行くところまで行くつもり、らしい。
 心なしかそわそわしているロックに寄り添うセリスには普段の凜々しさとか、きびきびした雰囲気はなかった。促されるまま部屋に消えていく力の抜けた後ろ姿が、同性でもどきりとするほど色っぽい。
 つい目が離せなくて、部屋の扉が閉まるまで二人を見届けたのだけど、ふと、妙に自分がうずうずしていることに気がついた。体の奥が痒くなるような、締め付けられるような、何とも言えない感覚だ。
 どうしたらいいんだろう。夜も遅いし、寝ようと部屋に帰る途中で廊下を通りがかっただけだ。なのにあんな熱いところを見せつけられた。おまけにその後の事まで想像させられて、体は変な感じになるし、すっかり眠気が冷めてしまった。
 仕方なく、行き先を部屋から厨房に変えた。何かお腹に入れれば満腹感で眠れるだろうし、眠れなければ談話室で本でも読んで眠くなるのを待つだけだ。

「うわっ」
 厨房の扉を開けた途端、顔を覆うような甘い匂いにむせて、咳き込みそうになった。この時間この場所に人がいることは殆どない。一体何事だろうと厨房を見回すと、匂いの正体はすぐに分かった。ガスコンロにぐつぐつ煮立った鍋がかけられていて、その鍋を機嫌良さそうにぐるぐるかき混ぜるマッシュがいる。どう考えてもあの鍋が、この匂いを生み出しているんだ。
多分、作っているのは木苺のジャムだ。昼間ガウ君が大量に木苺を持ち帰ってきて、皆喜んでデザートとして食べたのだけど、大量すぎてたくさん残ってしまった。このままだと傷んでしまうし、だからと言って捨ててしまうのはもったいない。それで夕食当番の人たちがどうしようか話し合っていたけど、結局木苺はジャムに生まれ変わるようだ。
「マッシュ」
「お、。どうしたんだ?」
 マッシュは振り向いて、立っているのがわたしだと分かると、それはもう嬉しそうに笑った。大男のマッシュが真っ白な、しかも可愛いデザインのエプロンをつけて料理する姿は、普段の頼もしい姿と違って可愛ささえ感じる。なのに普段は朗らかで、おまけに整った顔立ちをしているから(マッシュに言わせればそんなことを言うのはわたしだけらしい)、普通にしていても格好いい。 こんなに素敵な人がわたしの好きな人で恋人だなんて、本当に幸せなことだと思う。
 幸せをかみしめながら、わたしはマッシュにほほえんだ。
「ちょっと眠れなくてうろうろしてた。さっきの木苺、ジャムにしてるの?」
「ああ。長く保存できるし、使い勝手も良さそうだし」
「そうだね」
 マッシュの横に立って、鍋を覗き込んだ。鍋から上がってくる湯気の熱気と匂いに頭がくらくらする。同時にジャムの味を想像してわくわくした。彼が作るものなら絶対に美味しい。この素敵な人は、なんと料理まで上手なのだ。
「マッシュだけでジャム作ってるの? セッツァーとエドガーも当番だったよね」
「兄貴は仕事で、時間がないらしい。本人はジャム作りに興味津々だったみたいだけどな。セッツァーは途中までいたんだが、基本ジャム作りに人手はいらないし、先に帰ってもらった。眠そうにしてたし」
「そうなんだ。ねえ、これ、明日の朝には食べられる?」
「勿論だ。その為に今頑張ってんだから」
「やった!」
 わたしが声を上げたのを見て、マッシュは自分のことのように嬉しそうに笑った。きゅうと胸が縮んで、顔が自然に熱くなってきた。ぱたぱたと顔を仰いで笑い返したとき、初めてマッシュが夕食の時と同じ格好をしている事に気づいた。もう夜も遅い時間だというのに、ジャムを作っていてまだお風呂に入っていないのかもしれない。
「マッシュ、お風呂入った?」
「いや……ジャム作りに意外と時間がかかっちまって、まだ」
「じゃあ今のうちに入ってきなよ。その間、わたしがお鍋見てるから」
「え、いいのか?」
 わたしが頷くと、マッシュは頭を掻いた後、「悪いな。でも助かる。後は煮詰めるだけだから」とすまなそうに笑って厨房を出て行った。わたしにとってもいいタイミングだった。眠れないし、かといってやることもなかったし。それにジャムを味見すれば、お腹も満たされる。
 よこしまな考えを膨らませながらジャムが煮詰まるのを待った。最初は真面目に鍋の様子を見たり、お玉でかき混ぜたりしていたけれど、ぼこぼこする鍋を見ているうちに甘い匂いの湯気と廊下で見た光景がリンクしはじめて、いつの間にか頭の中は、あの二人とわたし達のことで一杯になっていた。
 マッシュは27歳、ロックは2歳年下で25歳だ。わたしとセリスは同い年の18歳。つまりわたし達とセリス達の年の差は、そんなに変わらない。どちらともれっきとした恋人同士で、皆もその事は知っている。つまりわたし達とせリス達の間に、大きな違いは無い。
 今日はどういうきっかけであんな事になったのかな。喧嘩したのかデートの流れでああなったのかは分からないけれど、とにかく二人きりでいるとき、何かのきっかけでスイッチが入ったのだろう。そしてそういうことはあの二人の間では良くあるのだと想像できた。部屋に入る時、ロックがセリスの腰に手を回す様子がやけに自然だったから。
 どうしてだろうなあ、と鍋をかき混ぜる。わたしとマッシュの間に、あんな濃厚な空気が流れたこと、あっただろうか。
 答えはノーだ。あんな雰囲気になったことなんか、一度もない。マッシュと二人きりだと、いつでも穏やかでほっとする時間が流れる。たまに甘えて寄り添ってみても、そこから抱きしめられるとか、さっきの二人みたいに乱暴にキスをされるなんて事は絶対になかった。せいぜいわたしと目を合わせて「どうした?」とにこりと笑うくらいだ。あるいは頭を撫でて「何か嫌なことでもあったか?」と心配するくらいか。
 今まではそれで大満足だった。過度に触れられるのは苦手だったし、その先を想像すると恐怖しかなかった。マッシュもわたしを気遣って、それ以上のことは望まないでいてくれた。そんなマッシュのことをますます信頼し、好きになっていった。
 だけど、と、わたしはジャムをかき混ぜながら唇を舐めた。
 どうにかなりそうなくらい甘い匂いの、どろりとした赤いジャム。今まで一度も思ったことのない感想が浮かんだ。何て妖しい色をした、淫靡な食べ物なんだろう、と。
 本当に、とんでもないタイミングでスイッチが入ってしまったものだと自分でも思う。こんな風に淫靡な展開が、自分の身にも起こって欲しい、なんて。


「お待たせ。ジャム、どうなった?」
 後ろからマッシュの声がして反射的に振り返ると、マッシュがタオルを首にかけて、石けんのいい匂いをさせて立っていた。わたしの様子に不思議そうな顔をした後、鍋に近寄る。胸の内にある邪な願いとは真逆の清潔な香りが、余計に欲をかき立てた。
「もう大分煮詰まったから、後は瓶に詰めるだけだよ」
「そっか。悪いな、すっかり任せちまった」
「ううん」
 首を横に振って、煮詰まり具合をマッシュに見せた。どう?と目で問うと、大丈夫、と頷いてくれたので、鍋の火を止めた。近くにあった空の瓶の蓋を開けて、動かないように押さえると、マッシュが鍋の取っ手を持って手早くジャムを瓶に詰め始めた。料理をする者同士だからなのか、それとも恋人同士だからなのか、何も言わなくても息ぴったりの動きに、つい頬が緩んでしまった。
 ジャムは瓶の口ぴっちりまで入れたけどそれでも入りきれず、鍋に少しだけ残った。これ、どうするんだろう。期待を込めてマッシュを見ると、マッシュは「これだけ残っててもどうしようもないし、二人で食っちまおうか?」と、心を読んだような素敵な提案をしてきた。断る理由はない。力一杯頷くと、マッシュはにっこり笑って皿を取り出し、残ったジャムを木べらでかき出した。
「美味いといいんだけどな」
「マッシュが作ったんだもん、絶対美味しいよ。じゃあ、いただきます」
「え、あ、おい」
 わたしは人差し指でジャムを掬い、ぺろりと舐めた。ちょっと甘めだけど、パンに塗ることを考えれば丁度いい味だ。しかも出来立てて温かいから、なおさら美味しい。これはいい、とばかりにまたジャムを掬い、舐めた。うん、やっぱり美味しい。
「美味しいよ!」
 マッシュに報告すると、マッシュはスプーンを持ってぼんやりとわたしを見ていた。もしかしてあのスプーンはジャムを掬うために出したんだろうか。だとしたら今のわたしはとてもお行儀が悪く見えたに違いない。マッシュは育ちがいいから、マナーには結構厳しいのだ。
「ごめん……指、突っ込んじゃった」
 おずおずと謝るとマッシュは吹き出して、「そんなに待ちきれなかったのか?」と苦笑した。
「うん……」
「全く、は色気より食い気だなあ」
 可笑しさを隠さない声に胸が痛んだ。やだな、そんなことないんだけど。そう思いながらも頷くと、「どれ、じゃあ俺も味見するか」とマッシュもわたしと同じように指を突っ込んだ。
「やべえ、付けすぎた」
 太い人差し指はジャムで真っ赤に染まり、マッシュが慌てて舐めた。けれど追いつかず、ジャムはたらたらと指を伝って手のひらや手の甲まで流れている。今にもしたたり落ちそうだ。マッシュは舐めながら「、何か拭くものをくれよ」と、わたしに助けを求めてきた。けれどわたしはマッシュの慌てぶりを見ながら、まるで別のことを考えていた。
 あの太い指で、大きな手で、わたしの体の隅から隅まで触ってくれたら。
 マッシュの舌と、わたしの舌が絡まったなら。
 あの大きな体が、わたしの体に覆い被さったなら。
 わたしは緊張して、動けなくなってしまうんだろうな。それを想像すると少し恐ろしくもあるけれど。
 その後はきっと、蕩けるように素敵なことが待っているに違いない。

、見てないで何か拭くものを……」
 マッシュの声を無視して、ジャムでべとべとになった彼の手に顔を近づけ、ぺろりと舐めた。何故かさっきより、ジャムが甘くて美味しい。そのままマッシュが硬直しているのをいい事に、太い指を、まるでもて遊ぶように舐めた。
 指先を口の中に含んで舐めたり、指の付け根に沿って舌を這わせてみたり、ジャムが付いていない指まで舐めてみたり。猫になっておもちゃにじゃれついているような気分だ。頭上でマッシュが何か言いたげに唸ったり生唾を飲む気配はしていたけれど、特に止めさせるような素振りはない。ということは続けていいんだよねと都合のいいように解釈して、止めないことにした。そのうち何だかうっとりしてきて、ジャムを完全に舐めてしまった後も、わたしは目を閉じて、執拗にマッシュの手を舐め回していた。代償というわけではないけれど、さっきの二人を見た後でわたしの体の奥に生まれた満たされない何かが、そうしていれば満たされるような気がしていた。
「……、」
 しばらくして、ようやく名前を呼ばれた。さっき拭く物を催促されてから、結構随分時間が経っている。ずっと黙っていたんだろうか。もしかしたらわたしが指を舐めるのに夢中になっていて、名前を呼ぶ声が聞こえなかったのかもしれない。
「……え?」
 喉から漏れた返事は、妙に掠れていた。媚びるような声だなと他人事のように思っていると、さっきまで舐めていたマッシュの手がすっと動いた。舐めすぎたから嫌だったのかなと今更心配になっていると、がしっと肩を掴まれた。びくりと体を強ばらせる間もなく怒ったような険しい顔が目の前に迫ってきて、急に息苦しくなった。
「ん……!」
 唇に押しつけられた熱くて柔らかな感触。戸惑っている隙を突いて、マッシュの舌が口の中に入ってきた。口の中で好き放題に動いているようで、その実丁寧にわたしの舌の感触を確かめながら触れてくる。意外な繊細さに、驚いて硬直していたわたしの舌は溶かされるように柔らかくなった。間違いなく望んでいた展開なのだけど、こんなキスは初めてで、どう応えたらいいのか分からない。とにかく拒否の意思がないことだけは伝えなければと必死で考え、様子を伺うように動く肉厚の舌に、恐る恐る自分の舌で触れた。これで大丈夫だろうか、真意は伝わるだろうかと不安になり、思い切ってマッシュに身を預けた。
 わたしの意思を正しく受け取ったのだろう。マッシュは積極的になった。優しかった舌の動きは途端に激しくなり、押しつけていただけの唇は息を吸うために――つまりは息継ぎが必要なほど長くキスを続けるために、何度か離れてはまた重なった。唇が離れるわずかな間に息を吸いこみながら、わたしはマッシュを受け入れていた。肩を掴んでいた手が背中に回され、やがてなで回すようにしながら腰まで下がってきたときも、そろりそろりとお尻にまで下がってきたときも、驚きと興奮と満足の混じったような気持ちを抱えながら、されるがままになっていた。

 しばらく抱き合ったまま、わたし達は何かに取り憑かれたように唇を付けたり離したりしていた。何度も繰り返しすぎてこのままだと唇が腫れ上がるんじゃないか、と心配し始めた時、マッシュがそっと唇を離し、ジャムの蓋を閉めながら、ぼそっと呟いた。
「……悪い」
「あ、い、いいえ」
「いきなりあんな事するから、驚いた」
「ごめん……」
 我に返ると、自分のした事は相当挑発的だ。けれどそれを意識してやっていたのだし、辺に言い訳するのも白々しい。居心地悪くきょときょとと視線を彷徨わせていたのだけど、だんだん怖くなってきた。と言うのも、マッシュが静かすぎるのだ。黙々とお皿を洗ったり、ジャムを戸棚に閉まったり。一つ一つの動作が淡々としていて、いつも鼻歌交じりで洗い物をするマッシュとは、明らかに様子が違う。
「マッシュ……本当にごめん」
「それはさっき聞いた」
 マッシュが振り向きもせず、返事した。
「うん……あの、怒ってる?」
「別に」
 いや、怒ってるよね。言い返したいのをぐっと堪え、謝罪以外の言葉を探す。けれど探したところで他に口に出来そうな言葉は何も無かった。マッシュだって無理矢理キスしてきたじゃないのとか、あんなキス初めてでどきどきしたけど凄く素敵だったとか、この深刻な状況で言えるわけがない。
 結局わたしは、その場でもじもじしながらマッシュが振り向くのを待った。とっくに片付けが終わっているのに、マッシュはまだわたしに背中を向けて、戸棚の前に立っている。振り向くのを辛抱強く待っていたけれど、あまりに微動だにしないものだから、こちらから動くことにした。びくびくしながら一歩近づき、険しくなっているであろう顔を、覚悟を決めて覗き込む。
「えっ」
 マッシュはお酒でも飲んだように、赤い顔をしていた。覗き込むわたしを見てむずがゆそうな表情を浮かべた後、「ああ、もう!」といきなり大声を出し、驚いて硬直するわたしに覆い被さるように抱きついてきた。
「ちょっと、マッシュ」
「一体何があったんだよ。急にあんな事して」
 そうか。そこから説明すればよかった。今さらその事に考えが至り、わたしはたどたどしく説明した。廊下を歩いていたらロックとセリスがいたこと。キスに夢中で、その後二人で部屋に消えたこと。部屋の中の二人を想像してしまい、眠れなくなって厨房に来たこと、を。黙って聞いていたマッシュは、「あいつら……」と、深い深いため息をついた。
「事情は分かった。けれど、、お前は全然分かってない」
「何を」
「俺がどれだけお前を好きか、全然分かってない。それにその、あれだ。どれだけ我慢していたかも、全然分かってない」
 お前、なんて初めて言われた。いつも名前か、「なあ」とか「きみ」とか、柔らかさを感じる呼ばれ方をしていたのに。もしかして動揺して、そこまで気が回っていないのだろうか。「ごめんなさい」と謝りながら、頭の中はその事に少し感動していた。
「あんな風に挑発されたら、いくら我慢したところで理性が吹っ飛ぶ。ここが厨房じゃなかったら、今頃えらいことになってたぞ」
「う、うん、ごめんなさい」
「全く……」
 マッシュはため息交じりに呟き、抱きしめる腕に力を込めた。元はと言えばわたしのせいなのだけど、今日のマッシュはとても強引で、それが新鮮で、胸の疼きが止まらない。もうこのまま流されてしまいたい。大きな背中に腕を回すと、「」と、掠れた声が名前を呼んだ。
「な、なんでしょう」
「その、これから、なんだけどさ」
「へ?」
「この後、どうする?」
「こ、この後って」
「どうする。厨房じゃ誰が来るか分からないし、来るか?」
「どこに」
「俺の部屋」
 きゅ、と心臓が締め付けられる。体の奥でじわりと生まれた熱が、逃げ場を求めて荒い息に変わる。頭がくらくらする感覚に飲み込まれそうになる。
 マッシュはそんなわたしをじっと見ていた。落ち着かせるように時折頭を撫で、もう片方の手は肩にそっと置いている。いつもと同じ動きのようで、そうではなかった。頭を撫でる手の動きはやけに丁寧で執拗であり、肩に置かれた手はじっとり汗ばんでいるのが服の上からでも分かる。
「あの、」
 やっとの思いで絞り出した声に、マッシュがびくりと震えた。けれど喉がからからになってしまい声はそれ以上絞り出せず、わたしは首をわずかに上下に振った。同時に、マッシュの喉仏がごくりと動く。唇だけが何か言いたげに動いたけど、言葉は出なかった。もしかしたらマッシュも、声が出ないほど緊張しているのかもしれない。そう思った矢先、マッシュがわたしの腰に手を回し、エスコートするように厨房の扉を開けた。
「帰りたいって言っても帰さないけど、大丈夫か」
 マッシュがわたしに欲情している。肯定の意味を込めて頷き、やけに体温の高い体に寄り添った。腰に回る腕に、ぐっと力がこもる。
「あいつらに感謝、だな」
「え?」
「いや、何でもない」
 マッシュが何でもないというのなら、何でもないのだろう。それよりもこれからだ、大事なのは。
 近い未来の出来事にめまいがするほど興奮しながら、わたしはますます体をマッシュにくっつけた。


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