「そんなわけでね、わたし今日、凄く頑張った!本当だよ!」
大きな黒い瞳を見開いて、きゅっと閉じられている事の多い珊瑚色の唇を一生懸命動かして、白い顔をほんのり上気させて、少女が力説する。
「そうか。そりゃ頑張ったな!」
笑顔で褒めてやると、少女――は、花がほころぶように笑った。
俺の、ベッドの上で。
長い旅の果てにようやくナルシェに着いた俺は、兄貴や仲間たちと再会を果たした後、明日の戦いに備えて寝ようとしていた。
カイエンは、到着時には既に眠そうにしていたガウと先に別の部屋に入ったから、今頃夢の中だろう。兄貴とロックはサウスフィガロの状況と明日の作戦についてまだ話し合っている。俺も途中までいたのだが、旅の疲れが出たのかどうにも目を開けていられない。二人が苦笑しながら休むよう勧めてきたので、先に部屋に戻った。
大きな欠伸をした時、小さなノックの音がした。話し合いが終わったのかと二人が入ってくるのを待ったが、扉は一向に開かない。不思議に思ってこちらから開けると、そこにがいたというわけだ。
「マッシュ、遅くに来てごめん。もう寝るとこだった?」
謝りながらも、なんだかうずうずしている。大人しいこの子がこんなに話したそうにしているのは珍しい。
「いや、大丈夫だぞ。どうした?何かあったか」
「うん!あのね、」
返事を聞くなりはすたたた、と部屋に入ってベッドに腰掛けた。そして興奮を抑えるように両手で頬を押さえた後、俺を見上げて口を開いた。
マッシュたちと別れてお風呂に入った後、案内された部屋に入ったの。そしたらティナって子が先にいて。わたし実はあの子と話してみたかったのね。だってあんなに可愛い子見たことなかったんだもの。マッシュもそう思うでしょ?(反射的に頷くと、は満足そうに先を続けた)
でもなんだか思いつめた顔してて、儚げで、笑って欲しくなって。気付いたら「ティナ」って呼びかけてた。
当然あの子はこっち向いたよ。「何?えっと……?」って。でもわたし、その後の事を何も考えてなくて、固まっちゃった。でもティナはわたしが話し出すのを待ってるから、勇気を出して「あの、これからよろしくね。わたしのこと……って呼んでくれたら嬉しいな」って言っちゃった!
ティナはちょっと首を傾げてから「分かったわ、。わたしの事は、ティナって呼んで?」って言ってくれて、ふわっと笑ったの。緊張がほぐれたみたいに。
それで嬉しくなって、マッシュと会った時のこととか旅の話とか、いっぱいしちゃった!ティナもフィガロにいた時の話とかナルシェに来るまでとか色々話してくれて、楽しかった。わたしあの子と仲良くなれそう。勇気を出して話しかけて、良かった!今日はもう遅いから無理だけど、機会があったらセリス?って呼ばれてた子とも話したいなあ、って思ってるの。
…ごめんね、皆真剣なのにはしゃいじゃって。戦いがあるってこと忘れてるわけじゃないよ。
ちゃんと剣の手入れもしたし、防具も新しくて丈夫なの用意してもらって、いつでも戦えるようにしてるから。その為に来たんだもの。
うん。わたし、明日も頑張るから!
が力強く頷いて話を締めくくるのを、俺は微笑ましく見つめた。
内気なこの子が自分から周りとコンタクトを取って、成長しようとしている。戦おうとしている。次々起こる新しい事を、戸惑いながらも前向きに受け入れようとしている。
「は頑張り屋だな」
「そんなことないよ、もう」
「明日はきっとセリスとも話が出来るぞ」
はくすぐったそうに笑って頷いた。
「うん!ところでマッシュ、」
「ん?」
「ずっと立ってないで、こっちに座りなよ!」
そう言って白い手が示したのは自分の隣。つまりベッドの上に並んで座れ、というのだ。
ベッドの上って、一応俺たちは健全な男女だし、人に見られたら変に勘繰られたりしないか?俺はいいけど。
この子その辺分かってんのか?まあ本人が座れって言うんだし、座らないと悪いよな。何故か自分自身に言い訳する。
隣に腰かけると、がにこっと笑ったので、理性がぐらつくのを感じながら笑い返した。実は俺はの風呂上りが大好きなのだ。いい匂いはするし、髪も肌も唇も、この子を構成するもの全てがつやつやで、何だか目が離せない。
ああ、それにしても。
大好きな女の子が風呂上りに部屋に来て、ベッドに腰掛けてこちらを見上げている。
無防備に笑っていて、押し倒そうと思えばいつでも押し倒せる状況。まるで情事の前のようなシチュエーション。
興奮…いや、欲情していることに気付かれないよう静かに生唾を飲み込み、話に必死に耳を傾けた。何も知らないは、今はカイエンがセリスに斬りかかって驚いたし怖かった事、その事をカイエンが謝りに来た事、お風呂が温泉で気持ち良かった事を話している。
温泉か。湯煙に浮かぶの白い肌、少しピンク色に染まってさぞかし色っぽいだろうな。
いかんいかん、どうしてもそういう想像をしてしまう。俺の修行の成果はどこに行った。禁欲生活には慣れてたんじゃないのか!?
「マッシュ?具合悪いの?」
気がつくとが心配そうに俺を見上げている。すんなりした腕が伸びてきた。額に感じたじんわりと温かい感触に、心臓が跳ね上がる。
「熱は無いみたいだけど」
少しだけ縮まった距離の中に新しい発見があった。
ナルシェで借りたパジャマは首回りが少し広めのようだ。綺麗な鎖骨がしっかり見える。
は普段露出の低い格好をしているから、滅多に見る機会のないそこに目が釘付けになった。男の俺とは違って華奢な鎖骨の下に目をやると、小ぶりな、だが確かに存在を主張している二つの膨らみがある。
「マッシュ」
不安そうな声に我に返って、慌てて目を逸らした。このままではただの変態だ。
「あ、悪い。明日帝国と戦うんだなーと思って。考え事してた」
は、ああ、と納得したような声を出してしばらく沈黙し、その後「ああ!」と叫んで立ちあがった。
「そうだよね、明日は戦いだもんね!それなのにわたしったら!マッシュも休まないといけないのに邪魔しちゃって!」
ごめん!もう寝て!叫んで勢いよく頭を下げ、部屋を飛び出そうとした瞬間、いきなりドアが開いて、ガンッと痛そうな音がした。
うわっと目を閉じてまたそっと目を開けると、そこには頭を押さえたがいた。ドアに頭をぶつけたのだ。
「あ、悪い!えーと、だっけ。うわ、どうしよう」
ドアを開けたのはロックで、何も悪くないのに可哀相なくらいおろおろしている。「マッシュが寝てると思ってノックしなかったんだ、ごめんな。大丈夫か?」
「だ、大丈夫、です」
よろよろと立ちあがったの声が微かに震えていた。俺の位置から顔は見えないが、どうやら緊張している。
「じゃ、わ、わたし、寝ます。明日、頑張ります」
「おう」
ロックは明るくて気さくで人に警戒心を抱かせる奴じゃないから、俺も、同じくらい内気そうなティナだってすぐ打ち解けたのになあ。まあロックの性格との頑張りがあれば、すぐ仲良くなるだろ。
「まあ、明日は心配すんな!危なくなったら俺が守るからさ!」
ぐっと親指を立ててウィンクして、二カッと笑って見せたロックに、黒い頭が「う、うん」と上下に揺れた。それを見て満足そうにロックは笑う。
「よし、それでいい!いてっ!」
「お前、どうしてドアの前で俺まも発言してるんだ。邪魔だからどいてくれ…おや?」
ロックを押しのけるようにして入ってきた人物を見て、が、はっきりと震えあがった。
「やあ、嬉しいね、また君に会えるなんて」
兄貴だ。蕩けるような笑顔を浮かべながら部屋に入ってくる。ひっ!と小さく叫んだはじりじりと後ずさりした。
かなり警戒している。
この子は色々言われたり聞かれたり…詮索されるのが苦手なようだ。だから女性がいると口説く兄貴のような男は恐怖の対象でしかないらしい。実際、部屋に戻ろうとした所を引きとめられ、散々口説かれたり色々聞かれたりしていたは、完全に兄貴に苦手意識を持っていた。
「一日の終わりに君に会えるなんて、今日はいい夢が見られそうだ」
楽しそうに言いながら、兄貴は一歩近づいた。
「石鹸のいい匂いがする。風呂に入ったのかい?」
は無言で頷き、一歩下がった。
「そうか。道理で君がより一層美しく見えるはずだな。肌も髪も輝いていて、素晴らしく綺麗だ」
兄貴はうっとりとを見つめ、一歩近づいた。
「そんなことない、です。普通です…」
は顔を真っ赤にして否定し、一歩下がった。
「いいや、君は美しい。ニケアにこんなに魅力的なレディがいるとは思わなかったよ」
兄貴がさらに一歩近づいて小さな手を取ったので、とび跳ねるようにして下がったは、どん、と背中を壁にぶつけた。逃げられない恐怖からか体を強張らせ、涙を浮かべている。
「参ったな…」
これには流石の兄貴も慌てた。手を離し、半歩後ろに下がる。
「そんなに怖がらないでくれよ。私は女性を見ると声をかけずにはいられないんだ。君のように素敵なレディだと、特に」
は益々泣きそうな顔で俺を見た。兄貴は困った顔で俺を見た。どちらも助けを求めているので、仕方なく二人の間に割って入った。
「兄貴、この子はそういうの慣れてないんだ。だから加減してやってくれよ」
何を加減するんだろう。
自分の言葉に首を捻ったが、兄貴は言いたい事を理解してくれたとみえて、片膝をついて、申し訳なさそうに黒い瞳を見つめた。
「分かったよ。、怖い思いをさせてすまなかったね。マッシュに免じて許してくれないか?」
顔を上げて、うつむいてを繰り返していたは、最後にちらっと俺を見てから「うん」と小さな声で謝罪を受け入れた。
途端に兄貴のすまなそうな顔が晴れやかな笑顔に変わり、一方で泣きそうだったもじわじわと笑顔になっていく。恐怖から解放された安堵からか、劇的な表情の変化が面白かったのか。とにかくは今、俺の好きな、照れたような笑顔を浮かべていた。
あの笑顔を見ると、柄にもなく胸がきゅんとするんだよなあ。なんかずるいぞ。ささやかな恨みを込めて、兄貴を見た。そして言葉を失った。
兄貴もの笑顔を見ていた。
目を少し見開いて、この人らしくもなく口をぽかんと開けて。
こんな顔は初めて見た。見ていた、なんてもんじゃない。見とれているのだ、完全に。
嫌な予感がした。
「兄貴、」
「あの、エドガー…様?陛下?国王様?王様?」
どの呼びかけに反応したのか、固まっていた兄貴がようやく動いた。と思ったらまたの顔を見つめ直す。
赤い舌がぺろりと、乾いた唇を舐めるのを見た。唾を飲み込んだ喉仏が、静かに上下するのを見た。涼しげな青い瞳が熱っぽく潤んでいるのを見た。
さっきの俺がそうだったように、兄貴も、目の前の少女に密かに欲情していた。
「エドガー」
「え」
「陛下も様もいらない。私の事はエドガーでいい」
「いや、流石にそれは」
「エドガーと呼びなさい」
口調はとても優しいのに、拒否する事を許さない強い力がこめられている。
「はい……エドガー」
「敬語もやめなさい」
「はい……うん」
兄貴は満足そうに笑って離れた。「引き止めてすまなかったね。部屋に帰る所だったんだろう?」
「うん」
「ここは寒いから、温かくして眠るんだよ」
「うん」
いちいちうなずき返してから、は俺と、俺の後ろで腕を組んで成り行きを見守っていたロックの方を見た。
「おやすみなさい、マッシュ、ロック」
「おう、おやすみ」
「おやすみ、」
返ってきた挨拶にちょっと笑ったの手を、兄貴が軽く引っぱって、注意を自分の方に向けた。
「お休み、…」
兄貴の声は高すぎず低すぎず、良く通る。その声が今は優しく愛おしげに名前を――この子の本名ではなく愛称を――呼んだので。
「あ……」
それに含まれた甘い響きを敏感に感じ取ったらしいは、顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「おや、私には挨拶はしてくれないのかい」
「……あ、う、えっと、おやすみなさい、エドガー」
「おやすみ、良い夢を」
「……うん」
小さな声で返事して、今度こそ本当に解放されたは、どこか気まずそうに帰って行く。
ますます嫌な予感がした。
「ああ、帰ってしまった。まだ話し足りなかったのに」
「帰らないとまずいだろ。て言うかお前強引過ぎ。いつもは相手の出方次第でもっと加減するくせに、らしくない」
「そうだな。我を忘れてレディを口説いてしまうなんて、私もまだまだ修行が足りないようだ。次からは気をつけるとしよう」
「何の修行だよ」
軽口を叩きながら胸をなで下ろす。ロックに言葉を返す兄貴はいつも通りの爽やかさで、さっきの甘い空気が嘘のようだ。嫌な予感はただの考え過ぎか。少し気が緩んだ。
「不思議な魅力を持つ子だね、あの子は」
気が緩んだ所だったから、一瞬、言葉の意味が分からなかった。
「あの黒い瞳に見つめられると、胸が熱くなる。あの唇で名前を呼ばれると、その先に続く言葉に変な期待をしてしまう。何というか…気になる子だ。マッシュ、」
名前を呼ばれてどきりとした。いつの間にか兄貴が、真っ直ぐに俺を見ている。射抜くような、探るような、そんな目で。
「あの子はお前に随分心を許しているのだな」
「まあ、やっぱり、一番長く一緒に旅してたから」
「話し合いの時も、彼女はお前にだけ自分から話しかけていた」
「それは、たまたま俺が隣に座っていたからじゃないか?カイエンやガウが隣に座ったとしても、自分から話しかけてたと思うぞ」
「肝心な事を聞いていなかった。彼女はお前に何の用で来たんだ?」
「ティナと、色々話せて楽しかった、って言いに来たんだ」
胸が痛い。
兄貴はの事を知りたがっている。そして俺との関係を探っている。水の中でもないのに息苦しくて、ただ喘ぐようにしか答えを返せない。これが他の男相手なら、返事一つでいくらでも牽制してみせるのに。
「それだけか?変わった用事だな…」
「…は人見知りで、知らない人に話しかけるのが苦手だから…自分から話しかけて、ティナと仲良くなれたのが嬉しかったんだよ」
「、か」
ゆっくりと、確かめるように名前をくり返し、彼女が出ていったドアに一瞬目をやり、兄貴は再び俺を見た。
「好きなのか?」
軽やかな口調でさり気ない雰囲気で、でも熱を隠しきれない俺と同じ色の瞳。痛いくらいに見つめられて気圧され、うめくように呟いた
「……何で、そんな事聞くんだ」
「それは、」
青い瞳から熱が消えた。
「まあ気にするな。ただの確認だよ」
ふう、とため息をついた兄貴は「明日は戦いだ。もう寝よう」と言い、さっさとベッドに入って明かりを消した。いつもと違う兄貴に目を丸くしていた ロックも急に我に返って「そうだな」とベッドわきの明かりを消す。
二つの明かりが消えて、部屋は急にほの暗くなった。
兄貴はベッドの中でどんな顔をしているのだろう。部屋で立ち尽くしている俺は、どんな顔をしているのだろう。
この薄暗い部屋では、見ることもできない。
嫌な予感は気のせいなんかじゃなかった。考え過ぎでも無かった。
また、大事な人と、欲しいものが、同じになってしまうなんて。
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