某所での仕事で、依頼主から当分は食うに困らない額の報酬を受け取った。
が、町を出ようとしたところで物陰から現れた男達に囲まれ、金を渡せと脅された。依頼主は報酬が惜しくなったらしい。良くある事だ、非常に。
金を返す気は無い。死に場所を探しているとはいえごろつきを寄せ集めたような奴らに殺されるのも、己の中にあるささやかな矜持が許さなかった。となれば取る行動は一つで、相棒と共に男達を返り討ちにした。弱いくせに数だけは多いので手こずったが、休んでいる間など無い。町の人間が駆けつける前に急いで町を出た。
船やチョコボを使い、遥か遠くのサウスフィガロ――以前も訪れた事がある――まで来た。
ここに来た理由は多い。某所から離れており、港町で人の出入りが激しく余所者が目立たない。治安が良く、酒場で絡んでくるような柄の悪い輩がいないのも面倒がなくて良い。何より酒場の主が無口で、訳ありな風体の一人と一匹を見ても何の詮索もしないのが気に入った。追手達に付けられた、深くは無いが浅くもない傷を癒すには丁度いい。
しばらくは宿屋と酒場を往復し、たまに医者に傷の具合を見てもらう、淡々とした日が続いた。予想通り滞在中、酒場で相棒に触ろうとした女一人と男二人の旅人達以外、絡んでくる者はいなかった。
宿で過ごし三食酒場で食事をし、医者にまでかかれば金が減るのは早く、持ち運ぶのに苦労した報酬は残り僅か千ギルになっていた。完治とはいかないが日常の動作に支障が無いほどには回復したので、次の仕事を探しに別の大陸に移動する事にした。目指したのはドマ地方。酒場で、帝国がドマに攻め込むという話を聞いた。何かしら仕事があるに違いない。
定期船で港町ニケアに渡り、その足でドマ地方に送ってくれそうな船乗りを探した。わざわざ戦争の起こる地域に船を出すもの好きなど多くはあるまい。残りの金はそのもの好き見つかるまでの滞在費のつもりだったのだが、意外にも数日で船を出してくれる男に出会った。戦争の噂は当然その男も知っていたが、彼が血気盛んな性質なのか、それともこの町の船乗りは皆そうなのか、意気揚々と船を出しているように見えた。
離れて行く港を見ながら、傷の治りが年々遅くなっている事を痛感した。
以前はこの程度の怪我なら二、三日で回復していた。それが四、五日かかるようになり、一週間かかるようになり、今回は二週間近くかかり、それでもまだ完治には至っていない。
この稼業に身を染めてから、名の知れた殺し屋が無残な死体を晒してきたのを幾度となく見てきた。事切れた顔は殆どが初老と言っても良い中年のもので、年齢による衰えが命取りになった事が容易に推測できる。
突如、かつての相棒が一歩近付いた気配を感じ、唇を噛み締めた。
ドマ王国のある大陸は広く、船で下ろされた場所から相当歩かなければならない。相棒に声をかけ、どこまでも広がる草原に向かって一歩踏み出した。「平原をあの山に向かって歩けばドマ王国に行く橋が見えてくる。橋の前に帝国が陣取ってるから、上手いこと言って通して貰えよ。あと平原にある一軒家には寄った方がいいぞ。その家に来る行商人からじゃねえと旅に必要なものは買えねえから。とにかくドマは遠いんだ」と言う船乗りの言葉を信じて。
やがて民家が見えてきたが、安堵は出来なかった。こんな辺鄙な場所に住んでいるのだ、住人の人間性は期待しない方がいい。
近付くと、家の庭は大層荒れ果てており、碌に手入れもされていない。偏屈な人となりを象徴しているようで、家人に声も掛けず伸び放題の草をかき分けて庭に入り、井戸のそばに腰を下ろした。こんな庭でも井戸だけはかろうじて使われているらしく、汲み上げた水は透き通っていて飲むには問題なさそうだ。その水を少し手に掬い相棒の口元に近づけると、相棒は匂いを嗅いだ直後に夢中で水を飲み始めた。
再び汲み上げた水を水筒に入れ、口を付けようとした時、そいつは現れた。
ドマに付くか帝国に付くかは決めかねていたが、とりあえずはドマに行くつもりだった。
俺と同じように草をかき分けて現れた大男にナルシェへの道を尋ねられ、そこに行くにはドマを通らなければならないと知っていたので、こちらから道案内を買って出た。見るからに人が良く腕の立ちそうな男は、依頼主としても信用に値し、魔物と戦うパートナーとしても申し分なさそうだ。ドマへの長い道のり、戦闘力として利用しない手は無い。
彼は細かい事は気にしない性質のようである。帝国の人間かどうかを確認しただけでそれ以上詮索せず、料金も気前よく先に支払い、道案内を頼んできた。
男――マッシュは、同行者に紹介すると言い、ついて来るよう促した。そこにいたのは肩までの黒い髪と同じ色の目をした、標準よりやや背が高い娘である。娘は、と名乗った。
あまりにマッシュが彼女を構うからてっきり妻か恋人、或いは似ていない妹かと思ったが、「俺が川に流されてたのを助けてくれた子なんだ。で、家出して行く所が無いから一緒にナルシェに行くことになった」そうだ。それ以外は聞いていないらしい。
とにかく無口な娘で、マッシュとは多少会話をするものの、彼が不在の時は一言も喋らない。無駄に五月蠅い酒場の女や詮索好きの町娘に比べれば遥かに良い。俊敏で戦い慣れしており、戦闘で足を引っ張らないのも良い。様子を窺うようにこちらを何度も見るのを止めてもらえれば、なお良い。
暗殺者と呼ばれる身である。人を護衛(というか共闘)しながら道案内するのは初めてだったが、この数日間は想像以上に楽だった。それは同行者二人が腕が立つ上にこちらの事情を詮索しない、理想的な性質の持ち主だったからに他ならない。
人畜無害な連中相手だと楽して儲ける事が出来るものだな。そう思えるほどに二人を、この旅を舐めていた。
平穏な日々は突然終わる。
一週間過ぎた頃から、が急に話しかけてくるようになった。
内容は天気や魔物や自分、マッシュの事で、至極どうでも良い話ばかりである。しかも話下手で内容が面白くないので相槌も打てなかった。隠れて様子を伺っていたマッシュを問い詰めた所、あの娘なりに俺と打ち解けようとした結果であるらしい。
これ以上退屈な話に付き合うのはご免だと拒否した。素性を聞かれるのもご免だと何度も拒否したのだ。だが拒否すればするほど、目の前の男を取り巻く空気が変化していった。例えるならお人好しの大男から野生の熊へ、野生の熊から獲物を前にして殺気立った熊へ、と言うべきか。
俺は感じた。死神が…ビリーが急に距離を詰めて、真後ろまで迫っていることを。
覆面で強張った表情が見えないのは幸いだ。この一週間でマッシュの強さを目の当たりにしているから、まともに戦えば無傷では済まない。下手すれば相打ちになる。ゴロツキに殺されるのもご免だが、こんな訳の分からない事で人生の幕を閉じるのもご免だ。それにあの女はともかく、細かい事を気にしない豪快さと、細かい事に気の回る繊細さを併せ持ったこの男を、実は割と気に入っている。戦いは避けたい。
俺の逡巡など知る由も無いマッシュは、荷物から重たそうな袋を手渡してきた。受け取って中身を見ると、大量の金貨が入っている。
「新たに3000ギル出す。契約内容は彼女の会話の練習。これは仕事だ、シャドウ」
要はあのくだらない会話に付き合う報酬だ。想像するだけでうんざりしたが、高額な報酬と、金さえ受け取ればこの男と戦わずに済む(そして俺も死なずに済む)事もあり、不本意ながら承諾したのだった。
この一件で、自分の見通しの甘さを思い知った。お人好しの男は機嫌を損ねれば世界最強の熊並みに恐ろしく、スイッチが入ってしまった寡黙な娘は、退屈な話と空回りな積極性で俺を精神的に追い詰める。もう二度と大人しくならない。
それから毎日のように、一方通行な会話に付き合う羽目になった。前金は貰っている以上仕事と割り切らなければならない。相槌で誤魔化せそうな所は相槌を打ち、答えを返した方がいい所は返し、感想を述べた方がいい所は感想を述べ、下らない話を事務的に処理し続けた。これでマッシュは満足しているらしく、俺達のやり取りを、うんうん、と笑顔で見守っていた。
この頃になると、日が暮れる前に俺とがテント設営と火の準備をする間、旅の途中皆で獲った魚や動物をマッシュが水辺で捌く、という流れが出来上がっていた。つまり夕食の準備は俺にとって拷問に等しい時間だったのだが、その日は珍しく拷問から解放された。なかなか晩飯用の動物を捕まえられず、ようやく鹿を捕まえた時には日が暮れており、「はランプ持ってたよな。暗くて手元がよく見えないから、捌く時にランプで照らしてくれないか?」と、マッシュがを川辺に連れて行ったのだ。久々の静かな夕暮れを堪能していると、鹿を捌き終わった二人が手頃な大きさに切り分けた肉を持って来た。「大きい鹿だったから、腹いっぱい食えるぞ!久しぶりに明日の朝も腹いっぱい食えそうだ!」と笑うマッシュの背後で、は何か言いたそうにそわそわしている。
「後は焼くだけだが…時間がかかりそうだな」
「あ、あの、わたし、ちょっと川に行ってきていい?」
ついにが口を開いた。
「いいけど…どうした?」
「涼んでこようかな、と思って…ほら、今日暑かったから…」
「そんなに暑かったか?少し肌寒いくらいだったけどな。それにもう暗いし、何かあったら危ないぞ」
「うん、でも、捌くの手伝って結構汗かいちゃったし、お願い」
マッシュはとうとう「肉が焼けたら呼ぶから、あまり遅くなるなよ」とだけ答えて送り出した。涼みに行くだけではない様子に気付いていながら、いつになく粘るに、敢えて何も言わずにいるように見えた。
の姿が完全に消えた後、つい聞いてしまった。
「様子が変だと思わないか」
「さあ…」
マッシュは呟くように言い、「まあ、一人にしてやろうぜ。あの子も色々あったし、考えたい事もあるんだろう」と静かに笑った。
「色々?家出した事しか聞いていないとお前は言っていただろう」
「覚えてたんだな。興味なさそうにしてたのに」
青い目を見開いたマッシュは「が自分で言ったから、ここまでは人に話していいって事だろうから話すんだが、」と前置きして言葉を続けた。
「何でも、お袋さんが病気で死んでから、親父が暴力をふるうようになったそうだ。それで家を出て一人で暮らしてたんだけど、親父ってのが嫌な奴で、権力を使ってを追い詰めてくるもんだから、逃げ場が無くなって、行く当てもないのに町を出たって言ってたぞ」
「何故父親は暴力をふるうようになったんだ」
「奥さんが死んで、心のバランスが崩れたんじゃないのか?それで目の前の娘に手を上げるようになったとか」
「それなら家出した時点で解決しているだろう。わざわざ探し出すほど執着する理由は何だ」
「知らねえよ。俺だって知りたいくらいだ」
「何故聞かない」
「聞けなかったんだよ!」
急に声が尖った。
「俺だって同じ事が気になったさ。だけどよ、不安で一杯の顔して言葉を選びながら話す子相手に、そんな根掘り葉掘り聞ける訳無いだろう?お前ならそこまで聞けるのか?」
「聞ける。素性も分からない人間と旅など危険すぎる。夜中に寝首を掻かれそうだ」
即答した俺に、マッシュは目を丸くし、眉間にしわを寄せて何やら考え始めた。
「いや…無理に聞き出すのも良くないかなと思って、敢えて聞かなかったんだが…もしかして詳しく聞いた方が良かったのか?でも人それぞれ事情ってもんがあるし…」
「マッシュ、何ぶつぶつ言ってるの?」
途切れる気配のない独り言に、澄んだ声が割り込んできた。
声の主は分かりきっているので、振り向きもせず肉の焼け具合を確認した。マッシュはと言えば「うわ!何でもない、これからどうするか考え込んでいただけだ!」と必死に誤魔化す。どう見ても誤魔化しきれていなかったが、は「そうだね。いつ帝国の兵士と出くわすか分かんないもんね。わたしも足引っ張んないようにしっかりしないと」と深く同意している。単純な女だ。
話しながら近付いて来たにようやく目を向けた俺は、丁度その髪の毛から水滴が落ちるのを見た。
「…髪」
「えっ」
「髪が濡れている」
俺の言葉には目を見開き、川に行く、と行った時のようにおどおどと「水浴びをしてたんです。ここ何日か、ずっと体を洗ってなかったから」と打ち明けた。
「水浴び?さっきは涼みに行くって言ってなかったか?」
「う、うん、あの、ごめん」
「別に謝る事じゃねえけど、なんで言わなかったんだ?別に秘密にするような事じゃねえだろ」
寒さと緊張で震えている姿を見て、マッシュは続けようとした言葉を切り、代わりに「そこにいると風邪ひくぞ、ほら、肉も焼けたから食え」と火の傍に来るよう促した。話題が変わった事でほっとしたのか、は安堵の表情を浮かべながら火に近付いて腰を降ろした。
その夜更け、マッシュは何度もため息をついていた。
普段は火が小さくなったら薪を入れたり武器を磨いたり、余った食材で夜食を作ったり、体に似合わず細々と動く男だった。それが今日は武器を磨いてはため息をつき、火が揺らめくのを見てため息をつき、余った鹿の肉を齧ってはため息をつく。ため息をつきたいのはこっちだ。
「何を考えているか知らんが、話したければ話せ」
マッシュは俺を見、躊躇うようにちらりと後ろのテントを見遣った。交代の時間までが眠っているテントだ。
「…さっき、俺とで鹿を捌いてただろ?で、捌き終わったから、汚れた手を洗おうとして立ち上がったんだ。その時、ランプを持って一緒に立ち上がったがふらついた」
「ほう」
「腕を掴んで支えようとしたんだが手は汚れてるし、支えないとが転ぶかもしれない。だから腕を使ってを抱き止めたんだ」
こんな感じでさ。腕を伸ばして何かを受け止めるような仕草を見て、俺はその情景を思い浮かべた。
「ほう」
「は一瞬何が起こったのか分からないって顔をしてたけど、俺の腕の中にいる事に気付いたみたいだった。それで」
マッシュはまたため息をついた。
「一瞬びくっと震えて勢いよく離れた。その時の顔がすげえ強張ってたんだよな。持ってたランプの明かりでよく分からなかったけど、青ざめてたと思う。その後涼みに行くって言いながら水浴びしてたろ。身の危険を感じたんじゃないかな。正直に水浴びに行くって言ったら…例えば、俺達が覗きに行くかも、とかさ」
「頼まれても覗かんがな」
「俺だってそんな真似しねえよ。…最初にあの子と出会った時も、同じように警戒してたんだ。まあ俺は男だし初対面だし当然だったんだけどよ。さっきまでのそういう出来事で、ちょっと悲しくなったんだ。ずっと一緒にいるのに、まだ警戒されてんだなって」
「気のせいだろう」
「そうかもしれないけどさ」
マッシュは黙り、また武器を磨いた。爪の切っ先は既に鋭く光り、これ以上磨く必要があるとは思えない。焚き火の爆ぜる音と虫の声が聞こえるだけの時間を終わらせたのは、彼の「は、可愛いよな」という、唐突すぎる発言だった。
「……………」
「考え込む事かよ。少なくとも顔立ちは整ってるだろ」
「崩れてはいない」
「でも笑わないんだ。笑顔を見たのは最初に出会って名前を褒めた時に、礼を言われた時だけ。そこだけ光があたって花が咲いてるようでさ、こっちまで笑顔になってしまうんだ。お前も見たら分かるぞ」
「笑顔なら何度も見ているが、その感覚は分からん」
「えっ」
「無理に細めた目と笑みを作った口元が激しく痙攣し、その顔をする時はいつも青白くなっている。見ると奇妙な感覚に陥る」
「そりゃ引き攣り笑いだよ!俺が言ってる笑顔ってのはそういうんじゃなくてだな!大体何なんだよお前は、さっきからケチばかり付けやがって!」
「……マッシュ」
マッシュが俺に詰め寄った途端、か細い声が聞こえた。同時に二人で声のする方を見ればが「ごめん、もう少し静かに……」と、眠たげな目を擦りながらテントから顔を出している。
「あ、す、すまん」
「ん…」
頷いてはまたテントの中に消えた。我に返ったのかマッシュは俺から離れてため息をつく。またか。こうなったら一晩でこの男が何度ため息をつくのか数えてみようか。そんな事を考えた矢先、またもマッシュがため息をついた。
「…もっと笑ったらいいのに。何か分かんねえけどよ、あの子が笑うといい気分になるんだ、俺は」
隣を見れば、さっきまでの狼狽ぶりが嘘のように、マッシュは静かな表情を浮かべていた。真剣でいて穏やかな、形容しがたい表情だった。
ようやく、マッシュの言わんとしている事が分かった。気付いてみれば今まで気づかなかったのが不思議な程、彼の態度はあからさまだった。
自分もかつて初めて味わい、満たされ、そして断ち切った感情だった。後ろ暗い過去を振り返れば、あの静かな村で過ごしたほんの一時期だけ、絵の具で色付けしたような鮮やかさで蘇るのだ、捨て去った筈のその感情と共に。
「お前たちは出会ってどのくらい経つんだ」
「え?ああ、今日で二週間くらいかな」
「警戒を解くには短い時間だ」
「そうかな…」
「警戒心が強い娘が見知らぬ人間と打ち解けるには、短い時間だと思わないか」
マッシュは天を仰いだ。
「そう言えば、…自分の事、人見知りだって言ってたな。俺も昔は同じでさ、初対面の人間と打ち解けるのにかなり時間がかかった。なんで忘れてたんだろう」
再びマッシュが俺を見た時、その顔に憂いは無かった。
「ありがとな、シャドウ。何か元気出たよ。あまり難しく考えないで、には今までと同じように接することにする。それにしてもよ…」
「何だ」
「お前、殺し屋にしては親切だよな。の話し相手はちゃんとするし、俺の相談にも乗ってくれるし。殺し屋ってのはもっと物騒な奴らだと思ってたよ」
「報酬分の仕事をしているだけだ」
「はは、そういう義理固いとこもお前のいいとこだよ。もう殺し屋なんか辞めちまったらどうだ?お前なら他の仕事に就いても上手くやれる。俺が保証するぞ!」
「……マッシュ…静かに…」
がまたテントから顔を出した。二度も眠りの邪魔をされたせいでさっきより不機嫌な顔をしていた。「すまん…」とマッシュが小声で謝ると、「ほんとにお願いね」と、またテントの中に消えた。
「へへ、怒られちまった」
何が嬉しいのか、マッシュはにこにこしながら夜食を作り始め、いつもの静かな夜が訪れたのだった。
「シャドウさん、昨日、マッシュと何話してたんですか」
結局は、その夜は碌に眠れなかったらしい。一度目にマッシュに起こされてから再び眠ろうとしたのだが、眠りに落ちる寸前でまたマッシュの声に起こされたそうだ。
そのせいで持ち味の俊敏な動きが鈍った結果、悉く敵の呪文の標的になり、攻撃をかわし損ねて俺とマッシュが庇う場面も多く、かなり足を引っ張っていた。は何度も謝り、マッシュは「元はと言えば俺のせいだから」と逆に謝り、その光景が日に何度も繰り返されるのを、俺はただ見ていた。
何がどうなったのか、「今日は早めに野宿の準備をして、みんなゆっくり休もう」という事になった。俺とがテントと火の準備をし、その後俺が先に川に行ったマッシュと共に魚を釣る、という流れだ。が俺に昨日の事を聞いて来たのは、起こした火が大きくなり始めた時だった。
「声が大きくってあまり寝れませんでした…でも盛り上がってたみたいだから、あとわたしの名前も何度か出てたみたいだから、会話の内容が気になってですね…」
出来れば教えて欲しいですと控え目に言うが、あの会話の内容をそのまま話そうものならこの娘の事だ、俺達、特に自分を女として見ている(彼自身が自分の感情に気付いているかどうかは知らないが)マッシュへの警戒心が強くなるかもしれない。話した所で俺は全く困らないのだが、マッシュを怒らせるのはまずい。
「…転職を薦められた」
「へ?」
「殺し屋を辞めて他の仕事に就いたらどうかと言われた」
「…あら…まあ…」
余程意外だったのだろう、は言葉に詰まっている。
「何度かわたしの名前が聞こえたんですけど…それは…」
「俺がこうやってお前と話したり、時に…今日のようにお前を庇いながら戦えるのを見て、殺し屋はもっと物騒な者だと思っていたから意外だ、と言っていた。その事だろう」
「ああ、なるほど」
いとも簡単に納得しする。つくづく単純な女だ。
「…わたしも、シャドウさんは殺し屋向きじゃないと思います。いつもさりげなく自分がテントを張って、わたしに楽な薪集めやかまど作りをさせてくれますから。わたしが攻撃されそうになると庇ってくれます。それに、」
少し長く喋りすぎたので、そろそろ沈黙が恋しい。会話が尚も続くのにうんざりしながら、黙って耳を傾けた。
「こうやってわたしの話を聞いてくれます。わたし今まで故郷から出た事が無いから、旅に役立つ情報も面白い話も知らなくて、自分が身にならない事ばかり話してるのは分かってるし、だから聞いててつまらないと思うんですけど」
その通りだと思ったが、口には出さなかった。
「わたし故郷にいた頃父に疎まれて、家を出る事にしたんです。仕事を探す時に、喋れないから体を動かす仕事の方がいいと思って、母の知人がいるってだけで町の自警団員に応募したんです。剣を教えて下さった先生のおかげでそこそこの腕前になって自信が持てたんですけど、旅に出たら強い人も魔物もいっぱいて、わたしは大した事が無かったんだと知りました」
それは少し違うと思ったが、また口には出さなかった。
「何にも知らないし、何にも出来ない。わたしがもっと賢くて強くて、自分に自信があったら。こんな風じゃなかったら、父も、…」
は急に言葉を切り、我に返ったように顔を上げ「あ、マッシュと魚釣りするんでしたよね。引きとめちゃってすみません」と取り繕うように謝った。やっとこの場から離れられる。これ幸いと立ち上がった。
去り際に振り向くと、は膝を抱えて小さくなっていた。俺の視線に気づいていないのだろう、瞳に思い詰めたような険しさを宿している。非常に鬱陶しいお人好しの重苦しさに満ちた表情は、違和感というか、胸をざわつかせるものがあった。
マッシュも大概だが、この女も世話が焼ける。
「」
「はいっ!?」
は弾かれたように顔を上げた。
「分かっている事だろうが、今日の戦闘で足を引っ張ったのはお前だ」
「……すみません……」
「戦闘に時間を割きすぎ、移動にかける時間が短かった。結果大幅に足止めを食らった。先を急ぐ俺やマッシュにとって、喜ばしい事ではない」
「……次は、こんな事が無いように、気をつけます……」
「お前の調子一つでこれだけ時間のロスになる。言い換えればそれだけお前が果たしている役割は大きいということだ」
「はい……え?」
これ以上言葉は必要あるまい。ついて来ようとした相棒に残るよう命令し、川に向かって歩き出した。相棒は不満そうに小さく鳴き、それでも大人しく焚き火の傍に戻った。
最初に案内を申し出たのがいけなかった。大きな誤算だった。
まず旅の仲間を甘く見、予期せぬ事態を招く。
そいつらの話を聞き、応える。
利害が一致したとはいえ、そもそも殺し屋が護衛の真似事をしている。この失態の数々、だがそれを心地よく感じている現状はどうだ。
こんなのは俺ではない。川への道を歩きながら、言い様のない不安に駆られた。
早くドマに行かなければ。こいつらから離れなければ。
心の奥に仕舞い込んでいた、あの柔らかく温かい感情の蓋が開いてしまう前に。
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